絶望が支配しても、死ぬ事を考えなかった。
一体、何に絶望していたのだろう。
肆 ・ 糸色 望
幽かに聞こえた声に、幻聴かと思った。昨日の今日で、まさか来るとは思っていなかったのだ。
神経を尖らせ、兄と生徒との会話に聞き入る。何の変哲も無い、社交辞令じみた無難な会話だが、何処か毒々しいものを望は感じていた。
然程会った事の無い筈の二人が、表立ってではないが険悪な空気を醸し出している事に首を傾げる。それは二人の傍に立つ交も同様らしく、きょとんとした顔で遥か上にある顔を交互に見詰めていた。
覗き見とは趣味が悪いな、と思いつつも、気になって仕方が無い。もう少しはっきり聴こえないかと、気付かれないように望は少しずつ玄関へ忍び寄った。
何時の間にか降り出した雨が、ノイズとなって更に聞き取り難くさせている。
「風邪、ですか?」
「ああ。望は熱を出している。明日には下がっているとは思うから、今は引き取って貰えないか?」
「……解りました。失礼します」
「兄ちゃん、帰るのか?」
「うん。先生にこれ以上迷惑掛けれないしね」
交の頭を撫で、命に軽く一礼すると久藤は玄関を後にした。
会わなくて済んだと、ほっとした反面、望は落胆もしていた。今は未だ、どんな顔をして彼を見れば良いのかが解らない。
客観的に見れば望は被害者の立場だったが、自身には《被害》という意識が無かった。寧ろ、あの時見せた久藤の思い詰めた表情を思い出すと、ある種の加害妄想に囚われる。
情に流されただけか、と問われれば「違う」と答えれる自信はある。だが、何故かと問われると答えられない。
その場にしゃがみ込み壁に懐く。ぐりぐりと頭を押し付けていると、背後から声を掛けられた。
「此処で何してるんだ、お前は」
「少々、頭を冷やそうかと思いまして」
「寧ろ摩擦熱が出そうな気がするがな。盗み聞きしてないで、大人しく寝てなさい」
促され部屋に戻る。布団に戻ったところで薬と水を手渡された。
口に含んだ刹那、命から思い掛けない台詞が零れる。
「しかし、まさか生徒に手を出すとは……」
「ぶっ!!」
狙ったようなタイミングに、思いっきり噎せた。気管に入ってしまったのか、呼吸も儘なら無い。喉が痛み、軽く涙目になる。
「大丈夫か?」
「てめーが変な事言うからだろうがっ!」
「男女のべつまくなしと聞いたが」
「それは倫が勝手に言ってるだけです。本気にしないで下さい」
口元を拭い、コップを盆に置く。今の遣り取りで、熱が上がったのは恐らく気の所為ではない。
抗議の意を込め横目で睨み付けるが、命は一切気にせず言葉を続けた。
「……あぁ、違うか。生徒に手を出されたのか」
「な……っ!?」
目を見開き、思わず絶句する。この反応では認めたも同然なのだが、命に指摘された衝撃が其処までの思考を望から奪っていた。
硬直した望の首筋に、命の指先が軽く触れた。一箇所、二箇所と数えながら次々と指して行く。
それは丁度、昨夜の痕。
「気付かない訳がないだろう」
「これは私の問題です。兄さんには関係ありません」
鋭く手を払い退ける。命は一度深い溜息を吐くと、盆を手に立ち上がった。
「熱も下がってるようだし、私は帰るかな。交も連れて帰った方が良いのか?」
「兄さん」
「お前の問題なら、私は何も言わない。ただ、心配している事は忘れるなよ」
粗方の諸事を済ませ、交を伴い玄関へ向かう。
扉を開けた途端、湿気を含んだ風が頬を撫でる。既に雨は止んでいたが、可也の量が降ったのか今朝以上に其処彼処に水溜りが数多く出来上がっていた。
雲間から差し込む月が、辺りを仄明るく照らす。その中に浮かぶ、一つの影。
「それじゃ、明日また来るからな。……柱の影のを如何にかしておけ」
「気付いてたんだ」
「今朝、女の子を見付けたのが彼処なんだよ」
交の手を引き、帰路を辿る命を見送る。角を過ぎ、見えなくなった辺りで望は電信柱の影へ近付いた。