たった一人の弟なんだ。
 大切に決まっている。




参 ・ 糸色 命





 朝には晴れていた空が、僅かに曇り始めた。肌に感じる風も、僅かながら湿り気を帯びている。天気予報では回復に向かうと言っていたのに、当てに成らないものだな、と命は買い物袋を抱え素早く家の中に戻った。
 買って来た食材を冷蔵庫に仕舞う為に台所へ向かう。勝手が解らないが、弟の家だ。余程の事をしない限りは然して文句は無いだろう。先ず、文句自体を言わせる気はないが。
 食欲があるかは解らないが、何時でも食べれるように簡単なものでも作って保存しておこうと鍋を手に取った。

「命叔父さん」

 作業をしている背に、幼い声が掛けられる。振り返ると、戸口からこっそりと甥が姿を見せていた。望の診察をしていた際に「体調を崩しているから、なるたけ近付くな」と言ったのを律儀に守っている様子に、命は苦笑を漏らした。正確には、それだけが理由では無いのだが。

「交。構わないから」
「良いの?」
「私は病人じゃないからね。風邪引いてるから、望には矢張り近付かない方が良いが」
「何か、出来ることある?」

 献身的な態度を示す甥を呼び寄せ、その頭を撫でる。常に面倒を見ている為か、望はこの甥に可也懐かれていた。
 末の妹にしても、命や他の兄達よりも年が近い所為か、現在進行形で望にばかり付いて回っている。
 ふと、今朝見掛けた不審者を思い出した。袴姿の可愛らしい子だったが、遣ってる事は犯罪ギリギリだった。望に確認したところ、教え子であると確証が取れた為休ませる旨を伝えたが、納得し直ぐに引き下がったようには思えなかった。望や交が何も言わないからには、大丈夫だと思いたい。
 出来上がった料理を椀に注ぎ、盆に乗せる。鍋の残りは後でまた火を入れれば充分だろう。
 再度、交に近付かないように伝え望の部屋に料理を運ぶ。

「望、入るぞ」

 普段ならば掛けない入室の声を上げ、襖を開く。予想してはいたが、望は出掛ける前と変わらず眠っていた。微動だにしない所為で、発熱による紅潮が無ければまるで死んでいるようだ。
 盆を畳に置き、手を当て熱を計る。来た時よりも下がった熱に、安堵の息が漏れた。

「ん……にい、さん……?」
「起きたか。調子は如何だ?」

 触れた感触にか、偶然か。固く閉じられていた目蓋がうっすらと開かれる。熱ではっきりしないのか、其の視線は茫然としていた。

「まったく……交からお前が倒れてると電話を貰った時は肝が冷えたぞ。とうとう成功したのかってな」
「……そうか。死ねば良かったのか……」

 軽く告げた言葉に、小さな呟きが返る。普段の自殺宣言とは違い、囁くように告げた分重みが増している。
 命は先程熱を計っていた手で、今度はその頭を叩いた。

「望。医者の前でそういう事を言うんじゃない。万一死のうとしたら、全力で阻止してやるからな」

言い分けのない子供に聞かせるように、真っ直ぐ視線を合わし告げる。幾ら本人が望もうとも、喪いたくないと思っている人間には止める権利がある。それが身内ならば尚更だ。
 命は再度望の頭を軽く叩くと、盆に乗せた椀を顎で示した。

「起きたなら食うか?さっき作ったばかりだから、未だ温かいぞ」
「何か、甲斐甲斐しいのが気持ち悪いんですけど」
「当たり前だ。半分、雨の中傘も差さず歩いて帰って来た阿呆な弟に対する嫌がらせだからな」

 後の半分は家族愛だと、満面の笑みを浮かべ椀を差し出す。スプーンに掬ってやり手ずから食べさせて遣ろうかとも思ったが、それは自分自身が嫌だったので止めておいた。
 今朝、交から電話を貰った時命は生きた心地がしなかった。幾ら交が大人びていると言えども、所詮は小さな子供。幼子の説明では明確な状態が解らなかった為に最悪な事態を考えてしまっていたが、いざ到着してみれば豪雨の中傘も差さず帰って来た為、豪快に風邪を引いたという自業自得な結果だった。
 椀を受け取った望が頭を傾けた途端、白い首筋が命の視界に入った。同時に、目に付く紅い痕。
 この痕が、交を部屋に入れないもう一つの理由だった。
 理解は出来ないだろうが、大人として見せるべきではない。

「あぁ、そうだ。今日は此処に泊まるからな」
「え?兄さん、病院は?」
「この状態のお前を置いておける訳無いだろうが。それに、交の世話も誰がするんだ」
「出来れば交を連れて帰って欲し……」
「却下」

 望の発言を一言で切り捨てる。交に関しては連れ帰っても構わなかったが、今の望を1人にすると、本気で───本人的には常に本気なのだが───自殺しかねない雰囲気
があった。恐らく、その原因は痕を付けた人物に違いない。
 弟の色恋沙汰に口を出す趣味は無かったが、場合に因っては必要があるな、と命は考えていた。

「子供じゃないんですから、1人で大丈夫です」

 尚も食い下がり、続けようとした望の言葉に、呼び鈴の音が重なった。
 病人が出迎えさせる訳にはいかないと、いち早く命が玄関へと向かう。既に交が対応しているのか、幽かに話し声が聞こえた。交の声からして、どうやら知り合いらしい。

「どちら様で……って、君は確か望のクラスの」
「久藤です。糸色先生は御在宅でしょうか」

 柔らかく笑う相手を見た瞬間、命はこの生徒が元凶だと悟った。








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