数多くの物語で語られる、美しいモノ。
だから、此れは違うと思っていた。
弐 ・ 久藤 准
常月が立ち去り、本鈴が鳴った後も久藤は図書室に留まっていた。
奥まった書棚に向かい、一冊の本を取り出す。中々に年季の入った其れは、開くと真新しい折り目が数多く付いていた。数ページに及ぶ折り目が、昨日の出来事を如実に語る。
きつい折り目が付いてしまったページを何気なく捲る。目に付いた文字に、思わず自嘲が漏れた。
「何と一言も言わずに行ってしまったのか。嗚呼、真実の愛とはそういうものなのだ。真実は言葉で飾るより以上に実行を持っているのだ」
揺揺と台詞を口にする。声にしてから、これが特に悲劇が有名な劇作家の作品である事に気付いた。あまりにも、今の状況に相応しい言葉だ。
自らが引き起こした事態に、じわじわと苦しめられる。自分も、相手も。
「愛なんて奇麗なモノでは無いけど」
手にした本を一瞥し、書棚に戻す。帰る前に一応片付けていたが、矢張り明るい時間に見ると並びがバラバラになっていたり上下逆さまになっていたりと、常に無い状態になっていた。
機械的に手を動かし、並びを直す。落下の際に破損した本は修復の為、区分しておいた。作業の間は無心で居る事が出来たが、終わってしまえば思考が辿り着くのは昨日の出来事。
記憶と共に、感覚までも蘇る。
触れたのは、予想以上に細く滑らかな身体。与えた刺激に震える様は、まるで人慣れない猫のようで。
必死に堪えながらも、無意識に漏れる声に情欲を煽られた。
最初は、普通に図書の仕事をしていただけだった。
入ってきた新刊を確認し、カバーを付け図書管理用データに入力する。それが終われば、返却された本を元の書棚に戻す作業に移った。
もう一人の当番が休みだった所為で予想外に時間が掛かってしまっていたのを、その場に居たから、と手伝ってくれたのだった。
そして、何時しか雨が降り出した。
何処から歯車が違ったのだろう、と考える。
雨が降った事で寒さを覚えたのは確かだった。だが、《寒い》だけでは理由にならない。それだけで手を出すようであれば、今頃危険人物として問題に成っている。
好意は抱いていた。妙な屁理屈を捏ね直ぐに絶望し自殺を図る、理解し難い行動も。教師に相応しい博学な知識も。
何より、本について詳しい事が嬉しかった。
どんな話題を振っても、明確な答えが返ってくるのが楽しかった。
反応が知りたくて、幾つもの話を作った。
何時の間にか《本の話題》よりも、《話す事》自体が目的となっていた。
嗚呼、と感嘆を漏らす。全ては単純な事だったのだ。
今迄の知識は全て本から手に入れていた。
行動の原理が本だった。
読んだ本の中にも、それを主に扱っているものは数多くあった。だが、その全てが自分には遠いものだとしか感じていなかった。理解は出来ても共感は出来なかった為、書物が謳う綺麗なものと繋がらなかったのだ。
実際、この感情は綺麗なモノではなかった。自覚した途端に湧き上がる独占欲。
体調不良を知っていた常月や、今傍に居るという兄にまで苛立ちが募った。
取り敢えず落ち着こうと、書棚に凭れ深呼吸を繰り返す。その際、ポツリと言葉が漏れた。
「……きです」
確かめるように、幾度も小さく呟く。音にする度、久藤の中でそれは確かな形を持った。
「好き、なんです」
耳に届いた自分の声に、矢張りこれは恋なのだと思った。