想像越える現実、相対し変わる原理
タタル渓谷にて
襲い来る魔物を倒しながら、渓谷を下る。戦闘を重ねるにつれ、多少勘を取り戻したのかルークは最初の戦いよりはスムーズに動けるようになっていた。
尤も、過去に比べれば天地程の差はあるが。
月明かりを頼りに、黙々と夜道を歩く。何かを考え込んでいるのか、下り始めてからのティアは一言も口を開いていない。その癖、切れ長の目はずっとルークに向けられていた。
降り注ぐ沈黙と、突き刺さる視線にルークの口も重くなる。
下手に触れれば、魔界に届きそうな程の墓穴を掘ってしまうだろう自覚がある為、此方からは話題が振れない。だが、元々そう気の長い方ではないルークはいい加減に限界を迎えていた。
「だぁぁ!さっきから人の事じーっと見て、一体何なんだよ!」
「ごめんなさい、不躾に見てしまって。……ただ、少し気になって」
瞬時に返された謝罪に、勢いを削がれる。思わず惚けたルークに、ティアは一歩近付いた。
胸が触れそうな程の距離に、ルークの鼓動が跳ねる。前にも思っていたが、ティアはある意味で無防備過ぎていた。
実際には中身が子供とはいえ、今の状況は普通に不味い。
夜の渓谷に、男と女の二人きり。幾ら何でも、この距離は危機感が無さ過ぎるだろう。
最初から男として意識されていない可能性もあるが、ルークは敢えて其処は考えないようにしていた。
「な、何をだよ」
及び腰になりながらも、強気に言葉を返す。ルークの虚勢を気にする事無く、ティアは疑問を口にした。
「貴方、軟禁されてたって言ってたわよね。それにしては、実戦経験がある気がするのよ。それに……いえ、何でもないわ」
ティアが続く言葉を飲み込んだが、その先は聞くに聞けない。
矢張り、ルークから口火を切るのは墓穴を掘る結果にしかならなかった。魔界に届くどころか、地核に迄到達しローレライを解放出来そうなくらいに深い墓穴だ。
出会ったばかりの新米兵士にすら疑念を抱かせる始末では、生まれた時から知られている主席総長相手だと速攻警戒心を持たれるに違いない。下手を打てば、未来の記憶がある事も露見してしまうだろう。
それだけは避けなくてはならないが、戦闘で手を抜くのは、即座に死に繋がる愚行だった。
上手い誤魔化しが見付からず、視線を泳がすと、その先に魔物とは違う影を見付けた。恐らくあれは、辻馬車の馭者。相手も此方に気付いたのか、踵を返しこの場から逃げようとしている。
「おい、待てよ!」
此処で逃げられては、エンゲーブに向かう手立てが無くなってしまう。ルークは慌て、その背を追い掛けた。
「い、命ばかりは助けてくれーっ!」
「野盗でも、漆黒の翼でもねぇっつーの!」
叫びながら逃げる相手を、必死に追い掛ける。以前はこんな事にはならなかったのに、何がずれてしまったのだろうか。
細やかな変化が、未来(さき)への恐怖を駆り立てる。
タタル渓谷にティアと居た為に、ルークはこれは過去の世界だと思った。だが、断言出来るだけの確証は何処にも無い。
もしかしたら、世界は停戦ではなく開戦に向かっているのかも知れない。
過った考えに背筋が冷える。ルークは不安を打ち消すように、更に走るスピードを上げた。
どれ程追い掛けていたのか、遂には渓谷を下りきり、馬車の近く迄辿り着いていた。
追い掛けて来るから逃げた、と溢した馭者にティアが即興で作り上げた経緯を説明している。
口を開けば碌な事にならないと先程学んだルークは、全てをティアに任せ成り行きを見守っていた。
「それじゃ、この馬車は王都まで行くんですね」
「1人、1万2千ガルドになるけどね」
「……高い」
野盗の類いではないと理解した途端、馭者の態度が商売人のものに変わった。
金額に逡巡を示したティアが、自らの胸元に手を置く。その下にある物を察したルークは、馭者を引き寄せ小声で話し掛けた。
「なぁ。一番近くの村までなら、これで足りねぇか?」
魔物を倒し、手に入れた全額を馭者に示す。だが、少しばかり足りないらしく馭者は首を横に振った。
「それなら――」
「ルーク?どうしたの?」
不足分は道中の護衛を行う事で支払う、と申し出ようとした刹那、ティアに遮られる。
ルークが手にしていた財布で大体を察したのか、ティアは何時の間にか外していたペンダントを馭者に手渡した。
「これなら、王都まで行けますか?」
「こりゃ上等な宝石だな。代金には充分だ」
満足気に馬車に向かう馭者の後を、平常と変わらない様子で歩くティアの肩をルークが掴む。
「お前、あれは……!」
「王都まで戻らなきゃいけないでしょ。土地勘が無いんだもの、仕方ないわ」
何でも無い事のように、平然とした面持ちでティアが言い放つ。
母親の形見などという、替え難い大切な物の癖に。
かつて取り戻した時には、心からの笑みを見せたくらいに大事なのに。
此処がマルクト領で、地図は頭に入っていると告げれれば、ティアがペンダントを渡す必要は無かった。
「どうして、気にするの?」
「別に。お前なんかに借りを作りたくねぇだけだよ」
無愛想に答えるルークに、ティアが困惑を浮かべる。
自らが招いたその顔を直視する事が出来ず、ルークはティアを置いて足早に馬車に向かった。
「……ごめん」
乗り込む直前、小さく零れた言葉は何に対するものなのか、自身でも解らなかった。
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