想像越える現実、相対し変わる原理
タタル渓谷にて



 不意に、意識が浮上した。
 辺りに広がるのは、天地も、左右も分からない白の世界。
 そもそも、世界との境界が曖昧で自分の存在すら定かではない。ふとした瞬間に境目は薄れ、混濁へと意識は沈みそうになる。
 このまま消えるのだろうな、と漠然と思った。
 それ自体に恐怖は無い。ただ、約束を守れない事が哀しかった。
 優しい人達を裏切る事が、狂おしいまでに胸を締め付ける。
 謝る事も出来ないから、せめて最期の瞬間まで彼らが幸せであるよう祈っていよう。
 叶うなら、もう一度あの紅い目を見たかったけれど。
 緩やかに訪れる微睡みに身を委ねようとした刹那、懐かしい声を聞いた気がした。





 ――――そして、世界は覆される。




 ***********




 己を包む環境に違和感を覚え、ルークは再び意識を取り戻した。
 白の世界とは異なる、確かな感覚。
 肌を撫でる冷たい風に、柔らかな草の匂い。背に感じるのは、暖かな土の温度。
 かつて傍に在ったそれらは、ローレライを解放した時に失った筈だ。
 僅かに痛む体を叱咤し、閉じた目蓋を震わせる。途端、視界に広がったのは月明かりの下、鮮やかに咲き誇るセレニアの花々と、心配そうに此方を覗き込む黒い軍服を身に纏った少女。
 安堵した時などに見せていた、彼女の仄かな笑みが記憶に重なる。

「良かった、気が付いたみたいね。……何処か痛む所はある?」
「……ティ、ア……?」

 小さく呼んだ名は、彼女の耳には届かなかったらしい。応えは無かったが、肩に触れた手の熱が夢ではないと物語る。手が離れると同時に、先程までの鈍い痛みは完全に引いていた。
 旅の最中、前衛で戦うルークは他の仲間達よりも怪我を負う事が多かった。その度、ティアの回復譜術にこうやって何度も助けられていた。
 記憶と重なる情景に、思わず泣きそうになる。
 約束を守れたのか、と喜びを覚えたのも束の間、意識を取り戻した時に感じていた違和感が増した。既視感に似た、奇妙な感覚。
 だが、幾ら記憶を探っても此処はタタル渓谷以外の何処でもない上に、目の前の少女はティア・グランツその人に間違いない。
 更に確認しようと、ルークは勢い良く起き上がり、辺りを見渡した。

「……え……」

 海に視界を定めた際、瞬時に違いに気付いた。
 最後の戦いの前に、墜ちた筈のエルドラントが無い。
 島とはいえ、レプリカに過ぎないのだからローレライが解放された時に引き摺られるように乖離し消滅する可能性がある。だが、海辺には墜落跡すら見受けられなかった。幾ら時間帯の所為で判別し辛いと言っても、あれだけ巨大な物が墜ちた跡なら分かる筈だ。
 ――これでは、まるで最初から何も無かったかみたいじゃないか。
 ひとつの可能性がルークの頭を過る。
 まさか、有り得ない、と否定しても、目の前の光景が肯定を示していた。

「ティア」
「……どうして、私の名前を?」

 ティアに向き直り、聞こえるように名前を呼ぶ。すると、ティアは警戒を顕に、素早い動きで自らの足に手を滑らせた。あれは、彼女がナイフを忍ばせている場所。
 内心大打撃を受けながらも、何とか表には出さずティアを見詰める。無言になる二人の間を更に冷えた風が吹き抜けた。先になる程、色素が薄くなる緋色の長い髪が風に遊ぶ。
 信じられなくとも、肯定するしかないのだ。
 墜ちた筈のエルドラント。
 切った筈の髪。
 知らない相手を見る、ティアの瞳。
 過去に還ったのだと、従いがたい現実がルークの目の前に広がっていた。


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