恋愛感染経路
気付いた時には、もう手遅れで。
それが心地よく思えてしまったなら、治る見込みは全くないのだろう。
望が勤務する高校の図書室は、到底公立校とは思えない規模の蔵書数を誇っていた。
図書室自体の敷地が広いだけではなく、設置してある書棚が通常よりも可也大きな作りになっている。その為、上段に置いてある本を探そうとするには脚立などの足掛かりが必須となっていた。
背は高い部類に入る自身ですら必要となるのだから、小柄な毒舌メール少女や不法入国疑惑少女など、タイトルすら見えないのではないか、と望は常々思っている。
だが、今はその事を考えている場合ではない。
目の前にある現実。これを如何に対処するかが、当面の問題だった。
衝撃で乱れた着衣を正しながら、辺りを見渡す。普段から、そう人気が多いとは言い難い場所の所為かあれだけ大きな音を立てたのに誰一人として様子を見に来る気配は無い。
床には足掛かり用に使用していた小型の脚立が倒れ、その周りに何冊かの分厚い本が散乱している。そして、本に埋もれた、気絶した男子生徒。
その光景に、望は昨夜観たドラマの内容を思い出していた。ベタ過ぎて逆に在り得ない話だと思っていたが、まさか似た様な状況が我が身に起きようとは。
起きてしまったからには、矢張りこの生徒と恋に落ちなければならないのだろうか。第一、同性でもフラグは成り立つのか。
「───って、違うし!」
妙な場所へ思考を飛ばしている場合ではない事に、数十秒経ってから漸く気付いた。
倒れている男子生徒に近付き、様子を探るが直ぐに目を覚ましそうには無い。意識を失っている場合、頭を打っている可能性がある為、下手に動かすと不味い事態に成りかねない。
養護教諭を呼ぼうにも、タイミングの悪い事に本日は遠方に出張していた。早くても、戻るのは翌日だ。
いっそ、医者である兄を呼び出そうとも考えたが、携帯は職員室に置いて来てしまっている。携帯くらい、取りに行けば良いのだろうが、万一離れている間に意識を取り戻したら、と思ってしまい望はこの場から動けなくなってしまっていたのだった。
取り敢えず、埋もれた状態だけは改善しようと本を移動させる。
「……久藤くん?」
傍らに膝をつき、小さく生徒の名を呼んだ。
何度か繰り返し声を掛けるが、閉じられた目蓋が開かれる事は無く。
ついでに見える範囲での外傷の有無を調べようと、望は久藤の顔をまじまじと覗き込んだ。瘤くらいは出来ているかも知れないが、特に目立った傷は見当たらない。
微かに聞こえる呼吸が乱れていない事に、望は安堵の息を漏らした。
一通りの確認を終えてしまうと、完全に手持ち無沙汰になってしまうが、これ以上の策が思い浮かばない。幾らなんでも、外傷が見当たらないとはいえ意識を失っている人間を放置して読書など行える訳が無かった。
何気なしに、覗き込んだままだった顔の観察を始める。男にしては長い睫毛に、すらりと通った鼻筋。目を閉じている所為か、彼の容姿は何処か作り物めいた印象を望に与えた。
言うなれば、平均以上に整った顔立ちをしているのだ。
この見目では、女生徒の人気が高いのは当然だろうな、と納得する。学生は他が今一でもスポーツが出来る人間がモテると言うが、それとは別ベクトルで久藤のような大人びたタイプも求められているのだろう。
温厚そうな雰囲気と顔立ちだけで、彼の事を騒いでいる一部の女生徒に得も知れぬ感情が湧き上がる。黒いもやが掛かったような、不明瞭な感覚。
何も。何も知らないくせに。
では、自分は何を知っているのだろうか、と考える。
図書委員をしていること。本が好きで、いつか世界中の本を読みたいと思っていること。彼の紡ぎ出す物語が、人心を捉えて離さない程に創作に秀でていること。本に比べ、他への関心が極端に低いこと。
その辺の女生徒と大差が無い事実に、少しだけ胸が痛んだ。担任という立場に、矜持でも抱いていたのか。
否、彼女達が知らないこともある。
例えば、彼の呼ぶ声。「先生」と彼の唇が紡ぐ、心地よい音を知っている。
『先生、ボクは貴方の事が』
これは違う、と脳内から追い出す。昨日観たドラマに、どれだけ影響されているんだ。
「ん……、せん、せい……?」
思い描いていたよりも、幾分か掠れた声が間近で聞こえ、知らず竦み上がる。同時に気付いたが、望は未だ久藤の顔を覗き込んだままの体勢だった。
「何で、」
「き、気付いたみたいですね!何処か痛い所はありませんか?気持ち悪いとかは?」
言葉が続く前にと、離れながら矢継ぎ早に質問をする。気を失っていた影響か、普段は落ち着いた色を見せる目が何処か芒洋とした雰囲気を漂わせていた。
怪我の心配は勿論しているが、知らなかった一面を見れた気がして望は一瞬嬉しさを覚えた。
「特に痛む所はありませんが……先生こそ、大丈夫なんですか?」
「あ、はい。久藤くんのお陰で、大丈夫です」
心配していた相手から、逆に具合を聞かれる。
そもそも、久藤が意識を失う事態に陥った原因は望にあった。
書棚の高い位置にある本を取ろうとした折、頭上に集中するあまり脚立から足を踏み外してしまったのだった。近場に居た久藤が、支えようと手を伸ばしたが間に合わず巻き込まれ意識を失ったのだ。
自身の失態に、穴があれば入りたいどころか、二度と出る事の無いように埋めて貰いたい心境に陥る。
「生徒に庇われるなんて、教師として問題外ですよね。矢張り私は向いていないんですよ……ッ!」
「え。ちょ、先生……!」
脱兎の如くこの場から逃げ出そうとした望の腕を、久藤が捕らえる。瞬間、久藤の顔が僅かに歪んだ。まるでそれは、痛みを堪えるような。
「何処か痛むんですか!?」
捕らわれた腕はそのままに久藤に向き直る。見た限りでは判らなかったが、制服に隠れた部分は怪我を負っていたのか。
ふと久藤の腕に視線を向けると、指先からは赤い色が流れ出ていた。細く走る朱線は、恐らく紙で切ったものだ。
「そんなに酷いものじゃないから。先生は気にしないで下さい」
いつもと同じ、穏やかな表情で笑い掛けられる。庇われただけでなく、怪我までさせたとなると余計に気にしない訳がなかった。
「ボクの事より、先生に怪我が無くて良かった」
深まった笑みを直視出来ず、思わず傷付いた指先を取り、じっと見詰めた。我に返ったのは、触れていた指がビクリと跳ねた瞬間だった。
途端に意識したのは、舌先に残る鉄のような味。
消毒のつもりだったのか、無意識に傷口を舐めていた己に羞恥が募った。とてもではないが、まともに久藤の顔が見られない。
望は久藤を解放すると、今度は捕まらないように渾身の力を込めて出口へと駆けた。逃げる背に、動揺した彼の声が聞こえたが止まる事は出来ない。
後悔や自己への嫌悪。相手への申し訳無さ。全てを含めても、望を支配している感情には追い付かなかった。
占めるのは、この上ない程の喜色。
「まさか、そんな」
走りながら、自問自答を繰り返す。答えなど一つしかなく、それを認めてしまえば、今迄の感情に説明が付くが、確信してしまう事が恐ろしかった。
ウィルスのように、全身を侵していく感情。
多分、これは。
終
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長編にする筈だった、んで……す……。
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