迫りくるような空を見ていた気がする。
このまま、こちらへ堕ちてくるのではないかと思えるほど。
圧倒的で煌々とした虹色に全体が染まり、微かに濁った墨色が一点中央に浮かんでいる。
少女は息を飲んでその飲み込まれるような光景を仰ぎ見ていた。
私は確かにこんな空を見たことがあった。
心の奥でそう囁く真っ白な私がいる。
不思議と心穏やかにそれを肯定すると、目前の景色が細部に至るまで不自然に整っていて不気味で――それはきっと美化されているからだろうなんて――ああ美化されているのは、思い出の方かしら。確かでもない、曖昧で、象徴的である私の記憶の断片で見知らぬ黒い少女が微笑んでいた。彼女の得体は知れない風態だけどこの風景にはぴったりで、見るな、何かおぞましいものとわかっていても見ずにはいられない。巨大な手に掴まれたような、硬直した身体で時が過ぎるのをひたすら待った。私という器にいるなにかが去っていくのを願った。そう。
だから私は息を吐くのと一緒にそっと呟いた。
彼女と出合った―あの日の灰色の空だと。
笑えない現状に少女は至っていた。
壁も床も真白、頭上に白色電球、辺りに散乱するガーゼと包帯。
自分はどこにいるの、なぜに――まったく何一つわからないのだ。ツーンとした匂いが鼻につく。ピカピカの鏡には何も映っていない。少女自身の姿さえ映っていない。ガシャーン――少女は一切躊躇うことなく意味を為してない鏡に自分の頭をぶつけた。キラキラと乱反射する欠片が派手に散らばった。奇妙なことに被害はそれだけだった。少女のほうは無傷だったのである。そして、覚る。そもそもはじめから少女の心は冷めていった――これはリアルじゃあない、あたしはまたどこかを捉えてしまったのだ、と。幾度もやった、経験はある。そう、対処の仕方を知っている。言い聞かせ、割り切ればもう次はどうするべきかと思考は動き始める。冷静に。まず、どこにいたかを思い出そう。頭をひねる。瞼を閉じれば、たくさんの絵が流れていく。どれも水彩で描かれたうえに水をぶっかけられたようでぼやけている。どうしても輪郭がはっきりしてない。それでも少女にはそれが鮮明な姿だった。本来の色が光を放っている。皓々とした球体の一つ一つ丁寧確認していく。少女はふと止めた。異質な輝きをみつけた。――これか。そっと手を伸ばして、歩き出した。途中、揺蕩うさまざまな色の残滓が少女に纏わりつき、邪魔をする。我関せず、少女は進む。やがて、蝟集した色は禍々しいものへと変化していた。ドロリ――しっかりと質量を持ち始めたのである。形はまだ朧気であった。何物でもないナニカ。ゼリー状のそれはまだそう気に留める必要はない。少女の意識は異質な光だけに向いていた。あと少しで掴める。触れた。ぐらりと視界が歪んだ。空間全体が、揺らいだのだ。まるで灼熱から出されて息を吹き込まれた硝子で造られたような世界。少女の真剣な面に汗が伝う。白い指先が熱にあてられてほんのりと朱色から橙に染まっている。光は白緑色で息づくようにちらちらときらめいていた。少女は小さな宝石を扱うように丁寧な仕草で両手に収めると、タンポポの綿毛を空に送り出すように優しく息を吹きかける。吐息の強弱に合わせて明滅する。ナニカは不格好な音頭を取りながら、五つに分かれて、少女の周りを囲った。少女は旋律を口づさむ。そろり、掌から宙へ昇る光。強く強く輝きを発して、弾けた。それに合わせて世界も砕け散った。少女は愁眉を開いて、身を任せた。
少年はその刻、透明なアクリル板の仕切りの先にある誰もいない黒い部屋を眺めていた。
少年の記憶が正しければ、確か、一刻前、ここには、一人の少女が横たわってたはずだ。
黒い壁のどこに出入り可能な扉があるか少年にはわからないけれど、ここにある管理パネルをみるかぎり鍵が開錠された形跡はない。
どうしたことだろう。少女はどこに消えた?
少年は少女のことをよく知らない。ただ上から見てろと命令を受けただけの観察対象。
どうするべきか、これは。
少年の周囲を漂い、流れては消えていく情報を拾う。拾えるだけ拾った。全部は処理できそうにないが、よし。少年は左親指を噛んだ。薬品の味がする。ペキっ――乾いたかわが割れる音がした。
コツリ、靴音が鳴る。青年の表情は少なく、淡々としていた。うつ伏せで倒れている少女を見つけると、そっと近づいて、片膝を折った。横向いた顔を隠す長い髪を分けて、少女の白い頬に己の手を添える。息をしていることを確認すると、恐る恐るその頬を撫ぜた。―――冷たい。まるで水の中で体温を奪われてしまったかのように。勿論、少女は濡れているわけはない。この部屋に水などない、溜めておくような甕すらない。むしろ、床も空気も乾いていた。青年は不安が胸の内で蠢き始めているのを感じていた。ほんの小さなものだったが、振り払うことができなかった。粛々とした空気が漂う。少し距離をとって青年は床に腰を下ろした。膝を抱える。涼しい顔、冷ややかな青の瞳が細められ、さらに鋭利な印象を深めた。
少女に起きる気配はない。
青年は黙然と少女を眺めていることを切り上げて、辺りを見渡す。まだ変わったことはない。ひと息吐いて、直立のまま、再び少女に視線を落とした。
―――たしか、わたしは、あちらに、どこに、ゆこうと、したのだろうか。
瑤は薄っすらとした意識の中、ぼんやりとしたまま心中呟いた。重たい目蓋、まだ身に纏わりつくような気怠さ。いっその事このまま一生、微睡みの中を揺蕩うことができるのならば、と瞳を閉じたが、御影石の床の冷たさに覚醒を促され、出来なかった。まるで寝てはいけないと言うような奇妙な感覚をおぼえる。仕方なく、うつ伏せの状態からゆっくりと上半身を起こした。顔を横に向けていたせいか、よじれていた首が痛い。落ち着いた色合いの錆の御影石はよく磨かれていて、少女の血色の失った顔を映す。セピア色の双眸が潤んでいる。垂れ落ちる滑らかな長髪。色素の薄い髪は天窓から射し込む陽に照らされ、光彩を放っているようで少女の儚さを強調した。鮮やかな唐紅の衣、その裾を錦糸が複雑な模様を描き飾っている。いきなり、引き攣られる嫌な感覚に襲われ、パチクリ、と瞬いて、少女は振り向きそちらに目を遣る。その上等な生地を粗暴に踏みつける汚れた灰色の革靴が見えた。首を動かし、辿るように視線を上げてゆく。上がりきったところで靴の主と視線が交わった。無表情で黙ったまま、見下ろす涼やかな目に少女は息を飲む。深い、それでも不思議と澄んだ海の色をした引き込まれそうな眼。少女の視線に気づくと、その表情はさっと緩んで、僅かばかりだが表情を作った。その微笑みに少女は戸惑う。少女の様子を見た青年はバツが悪そうに口を隠すように手で覆い、一度思いを巡らせた。その間にやおら立ち上がった少女は一旦、辺りを見渡して、深く息を吐いた。途端、少女の胸に激痛が走った。呻き喘いで、咳き込み、倒れる少女。青年は目を見開いてただ凝視していた。暫し、時が流れた。 また、少女はゆっくりとその身体を起こした。玉のような汗が額に滲み出て、さらに浅い呼吸が先ほどより目立つ。
「大丈夫か、瑶」
青年はそう言い、左手を少女に差し伸べた。少女はその手を掴もうとしてやめてしまった。霞んで先にある彼の手が視えない。よく見れば、少女の瞳孔は揺れている。青年はひと息つくと強引に少女の腕を取って、引き揚げるように立たせた。ちらり、少女は青年を睨めつける。だが、憔悴し切った色では何の効力もない。睨みつけているということすら受け取られなかった。青年が舌を打ち、ふらつく少女を支えつつ、視線を巡らす。何があるわけでもないのだが、警戒して越したことはない。白い部屋にいたんだ。そこから、どうした。
「瑶?」
青年のことが、言ってることが、少女にはわからない。
わたしは瑶というのか。その響きが脳を幾度も巡る。よう、か。そんな名前だった気がする。全身にしっくり流れ込んで、落ちていく。
「ねえ」
どうにか出た掠れ声で青年に問う。
「わたしはなにをしようとしてたの?」
これは同時に自分へ問いかけでもあった。
記憶の断片が取っ散らばっている。整理したい。瑶は顔を顰めた。瞼の裏に貼りついてるのは白だった。こことは違う空気で違う自分がいて。――ああ、やっぱり頭が重い。縋るような視線を青年に遣った。青年は少しだけ困った表情をした。
「深く潜りすぎたんだ。たっぷり休めば、時期にその違和感は治る」
片膝をついて続ける。
「あまり引きずらないほうがいい。そのうち、意識は統合すれど彼方側に主導権を持っていかれるぞ。揺らぎを視たのはお前が先だというのに」
静かに告げられる。揺らぎ。視た。あの子。
「フラウ?」
その名前がスイッチであったようにまた意識を手放した。
意識が沈んでいく。潜ろうとしたつもりが、引っ張られていく、そこへ。なんだか水に足が浸かっている絵が脳裏にあった。足首の少し上まで透明な液体がひたひた。ゆっくり波が打ち寄せて、満ちる、潮が引く。そんな単調なことが繰り返されているうちに気が緩んで、その一瞬のスキに持ってかれたのだ。
瑶は頭を振って、意識を取り戻そうとした。白い床に青い液体が飛散する。ゴムのように跳ねて、砂漠に落とされた一滴の水のように蒸発。痕跡を微塵も残すことなく。全てが乾ききってから瑶は一呼吸を大きくとった。身体は軽くなった。ゆっくりと上体を起こす。ぐらついていた視界にはっきりと色が帰ってきた。白い空間。あまりにも白に囲まれすぎていて瑶は一瞬惚けて、また昏倒しそうになった。あらゆるものの輪郭が曖昧に思えた。それほど、潔白なのだ――この空間は。ここにいるのがツラい。不可視の針で全身を刺されてるよう。悲痛な叫びが見えるよう。潔癖で排他的。瑶の脳内に誰かが過ぎった。いつも怜悧な笑みを貼りつけた彼女は漆黒のほうを好んだ。孤高で不敵、だけど誰よりも繊細。瑶はじんわり目元が熱くなってるのに気がついた。どうにかしようと思ったが、為す術がなかった。逆らうことなく伝い落ちていく滴に少女ノ形は歪んで映っていた。
少年は盛大な舌打ちをして、黒い盤上に両手両腕を叩き下ろした。大きな音に合わせて、明かりが点滅する。
アクリル板が隔てた先にいる少女はヘンテコな恰好をしていて、意味不明な言葉を並べている。そんなことより、そこにいるべき少女とは顔貌がまったく違う。少年は苛立ちを隠せない。これでまた仕事が増える。それも厄介この上ないやつ。