- ナノ -


episode 4

「わー……すごいね」
「美味いよ?」
「まじで?床が油でニキニキなんだけど」

角名くんに連れられてきたのはいわゆる下町の中華料理屋だった。油とニンニクのスタミナたっぷりな香りが店内に充満している。

そこそこ繁盛店らしく、幅広い年齢層のおじさんたちがビール片手にそれぞれいろんな料理を掻っ込んでいた。

触るのも憚られるようなギットギトのメニューを指で摘もうとしてやめた。代わりに店の壁中に貼られている色褪せたメニューでこの店のラインナップをキョロキョロと確かめる。その度にアッツアツのおしぼりで涼しげな顔をして手を拭う角名くんが視界に入ってきてなんだか浮いててシュールだ。

「角名くんてさ……中華似合わないね」
「は?似合う似合わないとかあんの?」
「なんかお洒落なお店でワイン啜ってそう」
「そんな日もないことはない」
「ふーん……横に小綺麗な女連れて?」
「そうそう」

ああ、そうですか。
私はそんな店には連れてけない女ですか。

「すいませーん、瓶ビールと餃子2人前。あとエビチリと青椒肉絲とライス中ください」
「攻めるね」
「そういうの求めて来たんでしょ?」
「まぁね」

運ばれてきた瓶ビールを素早く奪って彼のグラスにドボドボと注ぐ。私のグラスにも同じように注いで、二人のグラスの半分は泡だ。
雑に乾杯して口元についた泡を指で拭う。

「爪……キレイにしてんじゃん」
「そう?」
「肌も。去年より女っぷり上がってない?」
「気のせいじゃない?」
「遠慮はなくなってるけどね」
「この一年イロイロありましたんで!」

そういうとこちゃんと見てんだ。
無理やり約束させられたとはいえ、いつもの3倍早く働いて時間作って2日前にはネイルサロンにも行って毎晩入念に肌も手入れしたからね、気付いてくれてちょっと嬉しい
……なんて絶対に教えてやんない。

ちょうど運ばれてきた餃子を一つ取ってお酢をびたびたにつけて口の中に放り込んだ。
で、びっくりした。
皮から溢れる肉汁と生姜の辛味、意外とニンニクは控えめだけどそれがバランス良く効いていて練り込まれたキャベツがシャキッと清涼感まで与えてくる。

「うっっま!!」
「だろ?」
「えー、めっちゃおいしいじゃん……あと3人前追加しよ?」
「それは食べ過ぎじゃない?ライスも頼んでたよね?」
「そうでした……」


いくつか追加でオーダーしてお腹がはち切れるくらい二人で中華を食べた。
不覚にもまた楽しい夜を過ごしてしまった。

「さ、もうお腹いっぱいだし。帰ろっか」
私がそう切り出すと、角名くんは返事はせず、じっと私を見つめる。

「……なに?」
「この一年イロイロあったってどんなこと?」
「え、なんの話?」
「さっき言ってたじゃん、名前が」
「そうだっけ?」
「彼氏でも出来た?」
「出来てたらこんなとこ来てないよ」
「ふーん」

なにそれ。何を言わせたい訳?

「角名くんこそ、この一年はキレイな女と小洒落た店でワイン傾けてたんでしょ?」
「何そのイメージ」
「はいはいって言ってたじゃん」
「そうだっけ?」
「もう忘れてんの?」
「受け流しただけだよ」

なにそれ、何が言いたい訳?

角名くんは頬杖をついて上目遣いで私を見る。
なんだかそらすと負ける気がする。振り回されてばかりは癪なので、動じてないふりして彼と視線を絡めた。

「やっぱさ、気兼ねがないって大事だと思うんだよ」
先に口を開いたのは角名くんだった。
「気兼ね?」
「キレイな女と雰囲気の良い店とか行っても駆け引き面倒で最近あんまり楽しくない」
「やっぱ行ってんじゃん」
「それは置いといて」
「聞き流せるか、バカ」
「……今日スッゲー楽しかった。俺は」

負けだ。にやけそう。彼から視線を逸らして表情の変化を見られないように顔の向きも変えた。するとテーブルの上に置いたままの私の手に角名くんの大きな手が重なる。

「昔のこと、まだ怒ってる?」

当たり前だよ。私がどれだけ傷付いたと思ってんの?あなたを頭の中から排除してどれだけ耐えてきたのかなんて、あなたは想像すらせずに今日まで生きてきたんでしょ?

けど彼の手を振り払う事ができない。
また繋がった縁を切りたくないと思うくらいに私はまた角名くんに惹かれつつある。

「提案なんだけど」
「……何よ」
「来年もまた会ってくれる?」
「年一回なわけ?」
返事のかわりに角名くんは少しだけ口角を上げた。そして話を続ける。

「俺のことは保険と思ってくれたらいいから」
「保険って……」
「結婚相手が見つかったらやめていいよ」
「そんな簡単に……彼氏すらままならないのに見つかる訳ないじゃん」
「わかんねぇよ?名前綺麗だし」
「小洒落た店には連れてってもらえないけどね」
「行きたいの?」
「行かない!!」

伝票を掴んで席を立った。レジに向かう途中で上からヒョイっと角名くんに伝票を奪われた。

「今日角名くん誕生日でしょ?奢るよ」
「いいよ。俺の誕生日に付き合ってくれたお礼」
「やだ。出す」
「ダメ」
「じゃ、割り勘」
「それでいこう」


腹ごなしに散歩しよと角名くんが言った。

店を出てさっさと帰っても良かったけれど、次はもうないかもしれないと思うとNOとは言えなかった。

等間隔に並ぶ街灯の下、静かな線路沿いを並んで歩く。こんなに気負うことなく彼の隣でゆったり過ごすことになるなんて、人生ってままならないな。

「俺さ、引退するまでは恋愛とか優先できないと思うんだよね」
青白い街灯に照らされた角名くんの横顔は、より真剣身を帯びている。やっぱりスポーツ選手って大変なんだなと感じた。
「まぁたまにはハメ外したくなるけど」
と即座に戯けたフリをするけど、彼がバレーボールにかける想いは私が想像するよりもきっと大きい。スマートに振る舞ってるけど心の中は何よりもバレーでいっぱいなんだろうな。

「誰かに支えてもらうって選択肢もあると思うよ?」
「そういう関係性築く時間がなんかめんどい」
「めんどいって……じゃあしばらくはそうやって過ごしてたらいいよ」
「ん、そうする」

遠回りして歩いていたけどいつの間にか隣の駅のぽつりとした灯りが見え始めた。

このままいけば来年また会えるかもしれない。
けどこれっきりかもしれない。

アラサー女子の貴重なこの時間を、一度は私を裏切った彼に託してもいいんだろうか。こんな口約束、角名くん次第であっさり終わるかもしれないのに。それでまた傷付くのはごめんだ。

「名前」
「ん?」

角名くんを見上げると彼の顔がスッと近付いてくちびるが重なる。
ムードもへったくれもない。
ニンニクの香りのするキス。

何事もなかったみたいに離れていく角名くんは
「ハメはずしちゃった」
と無表情で言う。

「……雑」
「だめ?」

チラリと視線だけこちらへよこす。
彼の涼しげな目元は色っぽくて、私が動揺しているのを確認するとクスリと笑った。

雑なのに、深みにハマりたくないのに、不覚にもときめいてしまった。

「嫌じゃなかったらもう一回してもいい?」
「嫌!」
「えー」

ずんずんと大股で歩く。角名くんは歩くペースを変えないので私たちの距離はどんどん広がる。
気が付けば、駅がもう目の前だった。

私は振り返る。

角名くんは慌てることもなくゆっくりと私に近付いてくる。
早く逃げないと。今度こそ彼に囚われて逃げられなくなりそうなのに。
でも結局、角名くんが目の前に来るまで私は動けなかった。

「じゃあね」
「来年は名前が好きそうな小洒落た店探しとく」
「いいよ小汚い店で」
「やだよ、またキスしたいもん」
「そういうのもういいって」
「やだ。連れてく。エッチもしたい」
「欲望丸出しじゃん」
「気兼ねないからね」

すん、と澄ました顔で今までで1番ムードもぶち壊しなこと言う角名くんが面白くて思わず声を出して笑ってしまった。角名くんもつられて少し笑っている。

「こういうの、いいね」

出会った頃より対等で、友達みたいで、けれどしっかりときめきもくれる。勝手で圧強くて飾らないのにスマートで、表情は豊かとは言い難いけど笑うと確実に私は彼に釘付けになってしまう。

そんなわたしの気も知らず「でしょ?」と言う角名くんはちょっと得意げに口角を上げた。

無性にその表情を崩したくなって、彼の首に腕を巻きつけて噛み付くようにキスをした。
さっきよりも濃厚なやつ。
けど角名くんはそれを待ってたみたいに私の舌を受け入れた。

暗闇から小さなライトが徐々に大きくなってくる。電車が通り過ぎてぶわりと巻き上がる風、レールの軋む音と車窓に切り取られて溢れた光がいくつも私たちの頬を照らしていく。

遠ざかっていく音と光とまた私たちを包む闇。
離れ難い。

次に会うのは一年後だから。

だからもう少し、
あと少しだけ気兼ねなく私に触れてて。