- ナノ -

夏を食す

午後から休暇を取った。
帰宅途中で適当に昼を済ませ、家に帰って軽く部屋を整える。来客用のスリッパを玄関前に揃えたところでインターホンが鳴った。
そのまま扉を開けると
「不用心やな」と言って信ちゃんはまず小言をひとつこぼし扉の中へ入ってくる。今朝収穫したばかりの夏野菜をお土産に、雨のにおいと共に。

今年の梅雨は短くて、生まれて初めて信ちゃんの誕生日よりも先に夏が来た。
けれど肝心の信ちゃんの誕生日は雨が一日中降り続き、それからというもの梅雨が戻ったように雨がよく降っている。

野菜を受け取ると信ちゃんは「お邪魔します」と言ってそのまま洗面台へ向かった。
彼は手洗いとうがいをしてからじゃないとリビングに来ない。

「今年は早く梅雨明けたのに結局信ちゃんのお誕生日は雨やったな」
水道を使う音が聞こえなくなったので、お土産の野菜を袋から取り出しつつ、信ちゃんに話し始めた。

「せっかく今年は夏空の下、ベランダで信ちゃんの誕生日パーティーでもしよかと思ってたのに」
「あほか、えぇ大人が近所迷惑やろ」
「冗談やって」
「お前はやりかねん」
「え、ひどない?さすがに心折れるわ」
「そんな繊細ちゃうやろ、なまえは」

私の居るキッチンを通り過ぎて信ちゃんはリビングへ向かう。

「最近は仕事忙しいんか?」
「なんなん、そのおとんみたいなセリフ」
「えぇやろ、近況聞いたかて」
「あー……いっときに比べたらヒマやな」
「そうなんか」
「結構波あるからな。それより信ちゃん、今日の夜はバレー部の子らと飲み会やったっけ?」
「なまえも来るか?」
「行かへんー」

ジメジメした湿気が纏わりつく外に比べ、エアコンで除湿しているリビングはとても快適だ。
汗がひくまで信ちゃんにはゆっくりしてもらおうと、冷やした麦茶とお茶請けの茄子の浅漬けを振る舞う。
ひとつ摘み、ふたつ摘み。
小腹が空いているのか、信ちゃんはあっという間に浅漬けを平らげた。
「美味しかった?」
「うまい。これ食べたら夏が来た気ぃするわ」
「大袈裟やな、もうお盆も過ぎてんのに夏来たやあらへんやろ」
「それもそうやな」
「それに信ちゃんの家でも山ほど食べれるやん」
「なまえんとこの味付け好きやねん」
「またもう……そーいうこと言う」
「あかんか?」
「あかんくない。けどそんな調子のえぇこと言うようになって……大人になったねぇ」
「おっさんになったて正直に言え」

テレビのリモコンを手にして信ちゃんはぽちぽちとチャンネルを変えていく。ちょうど天気予報を放送しているチャンネルに行きつくと信ちゃんはじっと画面を見つめた。

「なぁ、信ちゃん。今日は電車やったっけ?」
「おん、飲み会やからな」
「じゃあ今からちょっとだけ一緒に飲んでも問題ないやんな?」 

待ってましたと言わんばかりにキンキンに冷やした缶ビールと茄子のおかわりをテーブルに置く。信ちゃんはしばらくは断る言い訳を探しているようだった。なかなか「ええよ」と言ってくれない信ちゃんに対して私は早々に痺れを切らした。

「なぁ、一杯だけでええから、なぁ信ちゃんて」
と、彼の目の前に置いたグラスになみなみとビールを注げば根負けしたのか信ちゃんは「一杯だけやで」と言ってグラスに手を伸ばした。

「じゃあ信ちゃんのお誕生日を祝いまして」
「待て待て、もうひと月以上前やろ」
「ええやん、別に」
「さすがに誕生日は勘弁してくれ」
「えーおもんな。……せやったら」

壁に貼り付けているカレンダーを見る。
8月19日、なんかあったっけ?
8月19日、8がつ19、819、はいきゅー

「あっ!はいきゅー!!」
「なんや?」
「排球!8月19日で排球の日!」

少し興奮気味の私に対して信ちゃんはその大きな瞳をパチパチと瞬いていたが、ようやく私の言いたいことを理解したらしい。

「……バレーボールの日ってことか?」
「そう!!」
びしりと人差し指を信ちゃんに指すと、その先をぎゅっと握られて「人を指差すな」と払われる。そういうところは抜け目なし。

「では819の日を祝しましてー」
「なんでもええから早よ飲むで」
「ちょっと信ちゃん、乾杯する前に飲まんといて!」
泡が消えかかったグラスはカチリと音を鳴らして離れていく。そして二つのグラスはお互いの口元に。
暑気を払うように喉を鳴らして琥珀の液体を体内に運ぶ。合間に茄子をひとつまみ。噛み締めるときゅっきゅっと音がする。


「なぁ信ちゃん、お願いあるんやけど」
「なんや」
「枝豆茹でてくれへん?」

2人でひと缶ビールを空けたところで信ちゃんにお願いしてみた。彼が茹でた枝豆は何故だかとても美味しいのだ。固すぎず、柔らかすぎず。食感もさることながら旨味がぎゅっと濃縮される。これも食物を育てるプロのなせる技なのだろうか。

彼は私の突然の申し出に顔色ひとつ変えず
「茹でるだけやったら俺が茹でてもなまえが茹でても味変わらんやろ」
とぴしゃりと跳ね除けた。
「そこをなんとか!な、信ちゃん、お願い!」
本日2回目のお願いにも関わらず、私が食い下がると信ちゃんは「しゃあないな」と言って席を立った。

立ち上がった信ちゃんの後を追って私も立ち上がる。
まっすぐ台所へ向かい冷凍庫の扉に手をかけた信ちゃんに「あ、今日の枝豆は冷凍ちゃうねん」と声をかけつつ、仕事で使うバックと共に床に投げ出したまま放置していたビニール袋を拾った。私の背後から覗き込みながら信ちゃんは袋の中身に手を伸ばす。

「えぇ豆やな。これ買うたんか?」
「んーん、昨日会社の人にな、貰ってん。親戚に豆育ててる人おるから要らん?って聞かれてさ」
「それにしたってえらいタイミングええな」
「今日信ちゃん遊びに来るって言うてたやん。だから頼んでてん」
「……初めからそのつもりやったんか?」
へへっと愛想笑いを浮かべれば、ほんまにお前は……とぼやきながらも信ちゃんはザルや鍋を準備し始めた。

私の祖母と彼の祖母は所謂茶飲み友達で幼い頃からお互いの家を行き来していた。
兄がいるので完全に妹気質の私と、上と下に挟まれた真ん中っ子でありながら面倒見の良い信ちゃん。
歳は同じなのにまるで兄のような、いや、下手をすればうちの兄よりも兄らしい信ちゃんに私は懐き甘えまくっている。それはアラサーと呼ばれる境界を超えた今でも変わりはない。

鍋から立ち上る湯気をたっぷり浴びて、信ちゃんは少し汗ばむ。鍋の中を悠々と泳ぐ枝豆に熱い視線を注いで。
「信ちゃん」
「ん?」
こちらを向いた信ちゃんの額の汗をおろしたてのタオルで拭うと
「ありがとう」
と彼は少し目を細めてお礼を言う。そしてまた鍋の中の枝豆へ視線を戻した。

日に焼けて、体も少し厚みを増した大人の信ちゃんは本当によく笑うようになった。

子供の頃の信ちゃんはおばあちゃんから教わったことを見て聞いて、少し緊張したように硬い表情で実際に自分でやってみて、何度も何度も繰り返して自分の糧にしていた。やがてバレーを始めた信ちゃんは素敵な仲間と宝物みたいな時間を共有した。
そうして積み重ねた時間や経験をたっぷりと吸収し、大人になった信ちゃんはまるで花が咲くように朗らかに笑う。
いつからだろう。
その笑顔を見ると少しだけ寂しくなるようになってしまったのは。

「信ちゃん」
「そろそろできるで」
「なぁ信ちゃん」
「今度はなんや」
「来年は信ちゃんの誕生日に休暇取るからまたここに来て」
「えらい先の話やな」
「約束やで?」

結局、信ちゃんはその約束の返事はくれなかった。

信ちゃんとは一時期疎遠になったことがある。
通う高校が別々になった事もあるが、信ちゃんがその宝物みたいな時を過ごしている間、私は側にはいなかった。
数年前、再び縁は繋がったが、また些細なきっかけでその縁が切れるかもしれない。

今の私はそれがとても怖い。


「ほれ、出来たで」
「ありがとう、さすが信ちゃん!美味しそうやね!」
「ビールもう一本飲むか?」
「飲む!」

先程ほろりとこぼれた弱音をかき消すように明るく振る舞う。信ちゃんはいつもどおり。
またテーブルに戻って新しい缶ビールを開けた。あつあつの枝豆はやっぱり美味しい。信ちゃんが茹でてくれたからなおさら。

「信ちゃん、美味しい!」
「豆がえぇんやろな」
「信ちゃんの腕がえぇんやって」
「褒めてもお前ん家のビールしか出ぇへんからな」

テレビではいつのまにかドラマの再放送が流れていた。あぁ、たしか信ちゃんのおばあちゃんが好きな俳優さんが出てるんやったっけ?
枝豆とビールを交互に口に運びながら信ちゃんはテレビを見ている。きっとこのドラマが終わったら信ちゃんは飲み会に向かうんだろう。

「さっきの話やけど」

信ちゃんが急に話しかけてきた。

「さっき?」
「おん、来年の話」
「あぁ……」

酔っ払いの戯言だと思って聞き流して欲しかったけどそうしない。それが信ちゃんだ。

「一年後なんて俺もなまえもどうなってるかわからんから約束はできん」
「真面目やな、そんなん適当にハイハイ言うとったらええもんを」
「今度見合いすんねん」

息が止まるかと思った。
信ちゃんはテレビから私に視線を移した。大きな瞳が私を捕らえる。

「……そう」
「だから」

来られへん

という言葉を信ちゃんの口から聞きたくなくて
「そら無理やんね、そっかー、上手くいくとええな」
なんて心にも無いことを信ちゃんの声をかき消すように次から次へと口に出した。

「おばあちゃん、喜ぶやろなー。ずっと信ちゃんの結婚式の話してたもんなぁ」
「なまえ」
「信ちゃんのお嫁さんになる人てどんな人なんやろ、優しい人やったらええなぁ」
「なまえ」
「あ、信ちゃんそろそろ準備せな飲み会遅れるんちゃう?片付けは気にせんといてな、まだひとりで飲むし」
「なまえ、聞いてくれ」

信ちゃんの声が響いて私の空っぽな言葉を飲み込む。
聞きたくない。耳を塞ぎたい。知らない誰かに取られるくらいならもう言ってしまいたい。
ふたりで浅漬け摘むのも、キッチンで隣に立って信ちゃんの額の汗を拭うのも、笑顔でありがとうって言ってもらうのも、ぜんぶぜんぶ私がひとりじめしたいって、言ってしまいたい。

「信ちゃん、好きや」

何かを言い出そうとしていた信ちゃんが言葉を呑んだ。
「好きや、ずっと。信ちゃんだけが好きやねん」

困らせる事はわかってる。兄妹としか思えへんって言われる事もわかってる。けどようやく気付いた本当の気持ちを伝える事なくまた疎遠になるかもしれないと思ったら全部ぶちまけて疎遠になる方がいいと思ってしまった。

「見合い……組合長からの紹介でな、いつもやったら断ってるねんけど今回だけは断られへんかった」

テーブルに置きっぱなしにしていた麦茶のグラスを信ちゃんは手にとって「できたらシラフの時に言いたかったんやけど」と呟いて、温くなったであろうそれを一気に飲み干した。

「なまえ、見合い断る理由になってくれるか?」
「……ふりってこと?」
「ちゃう、本気や」

今度は私が息を呑んだ。

「俺かてなまえのこと好きや」

信ちゃんはあまり冗談は言わない。けど嘘みたいや。子供の頃と同じような態度でそんな素振り、ちっとも見せてくれなかったのに。

「それは家族みたいなってこと?」
「ちゃう」
「友情みたいなやつ?」
「ちゃう」
「じゃあ……」
「ちゃんと女として見てるって意味や」
「っ!そんな生々しいこと言わんといて!」
「なまえが聞いてきたんやろ」

そう言って信ちゃんは立ち上がった。

「あ……もう出る時間?」
「おん……帰り、寄ってええか?」
「え?ここに?」
「ちゃんと話したいから……飲むんやったら程々にな」
「……わかった」

扉が閉まる音がする。早く鍵をかけなきゃ、また信ちゃんに怒られる。

アルコールが回ったのか、信ちゃんの本気に当てられたのか、わからないけどしばらく立ち上がる事もできそうにない。