- ナノ -

02

「俺と育んでみる?」


角名にそう言われた翌日も雨だった。

園芸部の朝当番の日と同じ時間に起きて同じ時間に家を出る。

バス停までの数分の道のりを歩きながら、私は私の気持ちを弔う準備をする。

治くんには笑っていてほしい。どんな事があっても、今日は絶対に笑顔でいよう。
そう決心した。

治くんの好きなテリタマのパンを買うために、いつもより早く列に並んだ。

目的のパンを買ったあと、私は食堂で彼女を待っていた。すべてのパンが売り切れて静まり返った食堂に彼女が入って来る。パンを買うために来た、というより私に会いに来た、そんな感じだった。

彼女は遠慮がちに「おはよう。昨日はありがとう」と言う。さっきまで雨の中を歩いてきたと思えないくらい、真っすぐで美しい髪に私は思わず息を呑む。

すこしの沈黙のあと、私は口を開く。

「来週からは私の代わりに治くんにパン買ってあげてな」

彼女に精一杯の笑顔を向ける。

「……うん。がんばる」

そう言って彼女は惚れ惚れするような完璧な微笑みを浮かべた。

治くんと角名はHRの開始ぎりぎりに教室に飛び込んできた。

「おはよ、名前ちゃん」

治くんはいつもよりほんの少しだけ元気が無いように見えた。

「おはよう、治くん。パンは1限終わったら渡すな」

そう告げるのと同じタイミングで担任が教室に入ってきたので彼の返事を聞かずに私は前を向いた。



授業も終わり、教室が活気付く。

私はかばんからパンを取り出して、治くんの机の上にそっと置く。

「ありがとう、名前ちゃん!やった、今日テリタマやん」

そう言って100円玉を差し出す治くんは空元気、といった風情だった。そんな彼を私は見つめる。

いつまでも差し出した100円玉を受け取らない私に、治くんは不思議そうな顔をする。

「どうしたん?名前ちゃん、もしかして具合悪いんか?」
「ありがとう、でも違うねん、治くん」
「ほんま、どないしたん?もしかしてなんか悩みでもあるんか?」

心配そうに私を見つめる治くんの視線を受け止めながら、私は告げる。

「私が治くんにパン買ってくるの、今日で最後やから。これは私の奢りです」
「えっ」

ぽかんとする治くんをそのままに、私は話を続けた。

「だから、来週からは他の人に買ってきてもらってな」

いつも雑談するときにみたいにニッコリ笑って。

「6組に髪の綺麗な女の子がおるねんけどな……私の代わりに治くんに毎朝パン買ってくれへんかなって今朝お願いしてみてん。治くんからも言ってくれたらきっと買ってきてくれると思うよ?今から行ってお願いしといでよ」

髪の綺麗な女の子と聞いて、治くんの表情が変わったように感じた。

「ほら、はやく」私は治くんに6組へ行くように促す。治くんは「ありがとう」と言って教室を出ていった。

私が買ってきたパンは机の上に置かれたままだった。

……これでおわり

治くんを笑顔で見送った私は深く息をついて自分の机に突っ伏した。
感情がこみ上げる事もなく、ただただ力が抜ける。それもそうか。これまでひっそりと育ててきた感情を自分で手折ったところだし。
この想いは涙を流すくらい激しいものではなかったのだ。
深みにはまる前で本当によかった。

しばらくすると、前の席に誰かが座る気配がした。
私の前の席のクラスメイトはいつも授業の開始ギリギリまで他のクラスに居るので、今この席に座ったのは恐らく……

「ほんとお人好しだね、名前ちゃんは」

やっぱり角名だった。
顔を上げようとする私を制止するように彼は私の頭を包み込むようにそっと片手を添える。

「……角名くん、わざわざ様子見に来なくてもええよ」
「そんなこと言って、どうせまた昨日みたいに昼休みに雨ん中、外出て土触るつもりなんだろ?」
「……今日は大丈夫」
「大丈夫じゃない」

そっとしておいて欲しい時に、精一杯強がって発した言葉を他人に頭ごなしに否定されてすこしカチンときた。

でもそれに対していちいち反論する気力が今はない。

もう、勝手にしたらいい。

チャイムなったら角名も席に戻るやろうし、今日一日を乗り切ったら明日は休みやし。

そのまま黙ってじっとしていたら、

「……俺は見てきたから、ずっと。名前ちゃんのこと」

そう言って角名は席を立った。

直後にチャイムがなる。

治くんは2限が始まっても席に帰ってこなかった。

3限目が始まる直前に席に戻ってきた治くんは、

「名前ちゃん、ありがとう」

と言ってくれたけど、ちょうど先生が入ってきたタイミングだったので聞こえなかったフリをした。

4限目は体育だったので、治くんには近づかないようにした。
遠目に見る彼は今朝の様子とは一変して内側から嬉しさが溢れ出すような輝きを放っているように見えた。
彼のこんな笑顔が見れて嬉しい。
そんなことを考えていた。

昼休み、更衣室で着替えを終えて教室には戻らずに園芸部の部室に向かった。

部室なら誰もいなくて、雨にも濡れない。

ここに来る途中に買ったカップのコーンスープと一緒に、あらかじめ持ってきていた自分用のテリタマを食べる。

パンはテリヤキソースとたまごで甘いはずなのに今日は妙にしょっぱい。

なんや。

結局泣くんか、わたし。



雨がしとしと降り続いている。

パイプ椅子に座って窓を打つ雨が流れ落ちていくのを眺めていた。

10分くらい前にチャイムがなったから、もう出席も取り終わって授業も始まっている頃だろう。

今日はこのまま家へ帰ってしまおうか、かばんもあるし。そんな考えが頭をかすめた矢先に部室の扉をコツコツとノックする音がした。

もしかして、サボっていることがバレたのだろうか。

ドキドキして手に嫌な汗がにじむ。

またコツコツとノックが響き、外から聞き覚えのある声が聞こえた。

「……名前ちゃん」

控えめに私の名を呼んだのは角名だった。

「中、入るよ?」

そう言って角名は静かに扉を開いて部室に入ってきた。窓際に座る私を見つめて、

「やっぱ、大丈夫じゃなかった」

と言う。

なんでこの人は私を放っておいてくれないんだろう。

気休めみたいに私を気遣うようなことを言うけれど、そんなの本当かどうかわからない。

もし本当だとしても、私を気遣うのであればひとりにしておいてほしい。

私は顔を背けて角名に言い放つ。

「角名くん、悪いねんけどひとりになりたいねん」
「だろうね」
「じゃあ出てって」
「嫌だって言ったら?」

頭に血が上るのがわかる。
やっぱり私のことからかってるんや。
興奮したらまた涙が滲んできた。

グイグイと腕で涙を拭うといつの間にかすぐ側まで来ていた角名が床に両膝を付いて私と目線を合わせ、とっさに顔を隠そうとする私の両腕を掴んだ。

「俺のいないところでそんなふうに泣くのやめてよ」
「出てって!」

私は顔を背けて角名を拒絶する。
こんなに人に対して激しい感情を剥き出しにしたことがなかったのでコントロールが効かずに声を荒げてしまう。

でも角名はそんな私の様子もお構いなしに、いつもの涼しい声で一言だけ「嫌」とかえす。

「ふざけんとって!!」
「ふざけてなんかない」

涙が溢れるのをそのままに、角名を見据えるとそこにはいつもと様子の違う彼がいた。

無表情でもなく、少し人をからかうような笑みでもなく、昨日私に見せた優しい微笑みでもなく、痛いのを我慢するようなつらそうな表情を浮かべて私を見つめる。

少しびっくりしてそのまま角名を見つめていると、掴まれていた腕をぐいっと引っ張られて抱きしめられた。

昨日とは違って、きつく、きつく抱きしめられた。



なぜだろう

さっきまで、あんなに苛立って仕方のなかった相手に抱きしめられているというのに、私の心は落ち着きを取り戻し始めている。

昨日もそうだった。

角名に触れていると、私はいつもの私を取り戻せるみたいだ。

なかなか私を抱きしめる力を緩めない角名に声をかけた。

「……角名くん、さっきはごめん。ひどいこと言うた」

その声を聞いて、角名はゆっくりと力を緩めていったがその体が離れることはなかった。

「角名くん?」
「去年、花壇の花がぐちゃぐちゃにされたことあっただろ?」

それが起こったのは私達が1年の時の9月頃、園芸部に入部して思い描いていた部活動を満喫している最中だった。

根本が踏まれていたり伸びた花が少し倒れていたりという事が時々あった。
はじめは花壇の中に誰かが誤って入ってしまったのかな?という程度だったのだが、それが徐々にエスカレートしてせっかくきれいに咲いた花が引っこ抜かれていたり、ハサミのようなものでバッサリと切られるという事態にまで発展した。

結局、それは外部の人が夜な夜な学校に侵入して犯行に及んでいたのだが、
毎日手をかけて育てた花たちを無残に切り刻まれた事に園芸部員は随分と心を痛めていた。

「そんなこともあったね」
「名前ちゃんが昼休みに裏の畑で暗い顔して土触ってるの見かけたんだよね。……はじめはあの人何してんだろって思ってたんだけど、名前ちゃんが園芸部員だって分かって、あぁ、例の件でへこんでんのかって」
「……それで?」
「バカだなって思ってたんだよね」

やっぱり私、角名にからかわれてるんちゃうんかな

角名は「怒った?」と、聞いてくる。
それには返事をせずに黙っていると、角名はまた話し始めた。

「ほんと、バカだなって、たかが植物にさ……」

また、角名が私を抱きしめる力が強くなった。

「それから……気になって、またひとりでへこんでんじゃないかって、校舎で見かけないときは畑が見えるとこ行って名前ちゃんがいなかったらホッとして、いたらいたでひとりにしたくなくて、でも声もかけられないし」
「……角名くん」
「笑っててほしいって思うようになってたんだ」

あぁ、なんだ

彼も私と同じだ

私が治くんに笑っていてほしいと思うように

角名も私に対してそんな気持ちを育てていたなんて想像もしなかった

毎日感じていた角名からの視線には、そんな優しさが込められていたなんて

「角名くん、ありがとう。ずっと見守ってくれて」

素直に角名にお礼を言うと、彼は体を離して私と正面から向き合った。
すこしだけ穏やかな表情になった角名は、

「泣きたかったら泣いていいよ。俺がいる時は」
「もう涙なんかひっこんだわ」

そう言ってふたりで笑いあった。



月曜日の朝、園芸部の当番を終えた私は食堂のパンの列に並ぶ。私より少し前には髪の綺麗なあの子が並んでいて、私を見かけると「おはよう」と声をかけてくれた。

7時30分に小窓が空いて行列が進んでいく。私の順番がきておばちゃんがいつものように「今日は何する?」と聞いてくる。

「タマゴパン2つちょうだい」



今日もHRが始まるぎりぎりに入ってきた治くんにいつものように挨拶をした。

まだ少しだけ胸の痛みは残るものの、泣いて笑ってご飯を食べて眠って植物に触れて、日々の生活を送るのにはなんの支障もなかった。

1限目を終えて、私はパンを1つ持って角名の席へ向かう。
目の前に立つ私に向かって角名はいつものように挨拶する。

「おはよ、名前ちゃん」
「おはよ、角名くん」

そう言って、彼の机の上に私はパンを置いた。
少しキョトンとした様子の角名に告げる。

「ビギナーはタマゴからやで」
「俺にくれるの?」
「うん。友情の証」
「そっか、ありがと」

そのまま自分の席へ戻ろうとしたら、カーディガンの裾を軽くつままれたので、振り返った。

「何?角名くん」
「さっきの、少し訂正してほしいんだけど」
「訂正って?」
「友情の証ってやつ」
「何かご不満なん?」
「……友情じゃなくて愛情にしてよ」

角名はそう言ってニンマリと笑った。

「さすがに急には無理かな」
「えー、そんな事言わないでよ、名前ちゃん」
「まぁ、検討はします」
「お願いします」

確証はないけど予感はする。
いつか角名と過ごす日々を大切に想う時がくるだろう。

ついこの間気がついたばかりだけれど、
角名から注がれる愛情で私の気持ちは
すくすくと育っていくのだ。