00 薄い埃をかぶった、部屋の片隅。
研究室の棚の上、わたしはずっと待っていた。
今日もあなたが訪ねてくれる。
わたしたちの関係。わたしだけの関係。わたしだけがあなたの愛しみを知っている。
01 帆来汐孝はごく一般的な、とは言えなくとも、至って生真面目な研究生だった。遠目に見ても痩身は明らかで、年中喪服のような黒いフォーマルスーツに身を包んでいる。特別にうつくしい顔立ちではないが、モノクロームの立ち振舞いは近代風の硬派な知性を漂わせ、現代の若者たちとは一線を画していた。
殆ど独りで行動し、近しい人との会話でも敬語を崩すことはない。微笑むこともない。表情はいつでも殆ど変動がなく、心のなかに他人を立ち入らせまいとする彼の意図は明らかだった。
それでも時折、彼の武装が融解する瞬間は存在した。
気を休める瞬間でさえ、彼が何を思っているのか、彼はきっと永久に語らない。いったいどれほど特別な効果を、研究室の片隅の逢瀬が及ぼしているのか、それを知る者はついぞ姿を現さない。
02 部屋の片隅、棚の上。
わたしは今日もあなたを見ていた。
言葉はない。真っ黒い眼を静かに見開いて、あなたは水槽をじっと見つめた。
暮れかけた日の光がカーテン越しに部屋を照らす。あなたはいつからか持ち出した椅子に腰を下ろし、時間も気にせず、わたしを眺める。
人工海水を通して見えるあなたの姿はゆらめいている。
関係は、見つめ合う以上の仲には決して至らない。触れ合いはおろか言葉を交わすことさえも絶対に起こり得ないのだった。
他人を心に立ち入らせまいとするあなたの固い表情に変わりはないが、幾ばくか穏やかな姿に見える。意思の通じないことをこれほど穏やかに受け入れる人物は、果たしてあなたを除いて存在するのだろうか。
あなたの黒いつややかな髪。黒い瞳。モノクロームの立ち振る舞いを、わたしは声もなく見つめ返す。
やがて静謐な時間を割るように准教授が分け入ってきて、あなたと二三話をする。前日に孵化したブラインシュリンプをピペットで掬い上げ、触手にあてがって経過を見守る。水の入れ替えを済ませると逢瀬は終わり、あなたは立ち去る。こんな関係が続いた。
03 准教授が気まぐれに買い求めたサカサクラゲを発見した帆来汐孝は、水温計、比重計、小動物用ヒーター、カルキ抜き、人工海水の元、等々、必要物資を手早く買い揃え、毎日の給餌と水の掃除を請け負った。
直径4cmの小さなサカサクラゲは瓶の底で天を仰いで、時折パカパカと拍動した。名前の通り海底に仰向けになってイソギンチャクのように暮らす種であるため、水中を泳ぐ他のクラゲよりも幾分か飼いやすい。彼らの場合は海流がないと生存できないのである。
「水換え不要」「餌不要(光合成で育ちます)」の誇大広告に釣られ600円で購入されたサカサクラゲは、帆来汐孝と出会った頃には既に衰弱しかけていた。もともと環境の変化に弱い貧弱な生物である。瓶詰めの環境下で立て直し、こうして二ヶ月も生き永らえているのは幸運だ。
「本当に飼育するなら水槽と浄化装置を揃えるべき」とは彼の談。
「正しい飼育下なら一年は生きます。直径10cm程度には成長するでしょう」
ジャケットを脱いでシャツの袖口を几帳面に折り畳んで腕をまくり、サカサクラゲを小さな容器に移した。生き餌を与える。食休みの間に元の容器の水換えをする。既にクラゲの原価の10倍は飼育費に当てられているだろう。
「帆来くん、水産系に進んだ方が良かったんじゃないか」と准教授は笑って言うが、修士課程まで進んだ学生には酷なジョークだ。
「趣味の範疇ですよ」言われた彼は顔色一つ変えずに返す。ビーカーの水質を測る彼は、喪服よりも白衣の方が似合いそうだった。
04『呼吸のために蓋を開けています 繊細な生物です 触らないでください』
あなたの但し書きのおかげで、わたしに触るものはいなかった。植草詩苑は時々その部屋を訪れては写真を撮り、Instagramに公開した。だから詩苑は時折あなたと居合わせて、いくつかの会話を交わした。
「調べたけど、クラゲって飼うの難しいんですね、人工の水流を起こさないといけないんでしたっけ」
「かれらには心臓がありません。なので泳ぐ行為がそのまま拍動の役割も果たし、体内に養分を巡らせます。しかしクラゲの泳ぐ力は弱いので海流が無いと泳げません」
「それで、泳げないと死んでしまうって、マグロみたいですね」
「かれらは口から鰓へ通過する酸素で呼吸しているので、泳ぎを止めると窒息します」
詩苑は新しい知識に感嘆して、ブラインシュリンプを選り分ける帆来汐孝の背中を見つめた。
「なにか手伝えることはない?」というような、愚かな好意は伝えない。詩苑は弁えていた。
給餌のために帆来汐孝は瓶を動かした。全くこちらに注意を払われていないことは明らかで、詩苑は退室する。
あなたの筆致は右肩上がりで跳ねと払いが長い。
05 暗黒色の瞳が今はわたしだけを見つめていた。あなたを見つめる者もわたししかいない。
わたしたちは見つめあっているという自覚も無しに、向かい合って同じ時をこうして過ごした。
瓶越しに見つめるあなたの姿は歪んでぼやけた像にしか映らない。
あなたにはお話が通じないから、わたしは多くを望まない。あなたは人間の愛し愛される営みを、人の逢瀬を知らないのだろう。あなたのこころは偏執的な海底に深く沈んでいる。
揺れる風景の端にあなたが立っている。
風景のなかにわたしが介入する。
瓶のなか拍動するサカサクラゲの写真を撮るわたし。クラゲとマグロについて僅かな会話を交わすあなたとわたし。
目論見通りでもあり、悲しいことに、彼は人間には全く関心を払わず、気にかけているのは瓶のなかのちっぽけな小動物か図鑑のなかの動物ばかりで、フォーマルウェアに身を固めた彼の内奥は小学生男子のように純粋で稚拙だった。その証拠に、目を離した隙に仕込んだ細工を未だあなたは知らないでいる。
きっとどんな手を尽くしても振り向くことのない彼を標本にしはじめたのは二週間前。以前からクラゲの写真を撮りに来る女として顔馴染みのわたしが、瓶の裏側に小さなカメラを隠しても、幸か不幸か人間の動向に関心のない彼は気付かない。
クラゲに向かって愛を囁くような、ロマンティックで愚かな映像はワンシーンたりとも映らなかった。記録されたのは彼が毎日飽きもせずに動かない生物を見つめる風景だけ。
メモリーを自宅に持ち帰り、代わり映えのない日々を整理する。本当に瓶詰めなのはあなたの方であるとは、まだ教えてあげない。自分の力で気付くといい。人間にも価値があり、あなたの価値を欲望する者がいるということを。
だから、今日もレンズ越しに、あなたの訪れを待っている。人に向けられることのない有り余った愛しみを、わたしが代わりに受け止めてあげる。
待ち合わせは瓶底で
(あなたの知らないあなたを見せて?)
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