新しく見つけてきた家庭教師は裏街の出身だった。父は隠そうとしていたらしいが、彼に尋ねると口を割るのは早かった。彼自身秘密を守る気などさらさらないようで、契約金以上の働きはしなかった。そもそも講師が全く乗り気でないことは、私もとっくに察していた。
 ベーゼンドルファーを中央に据えた楽器のためだけの一室で、最初の逢瀬は父を介した。好事家の父がこの男を見つけてきたのは裏街の酒場で、ジャズピアニストとして夜に演奏する彼の昼間の時間を買い取って、父の趣味のクラシックをこの屋敷で弾かせていた。
 新しいピアノの先生を招いたと〈音楽室〉に呼ばれた時には、次の家庭教師が若い男だなんて思いもしなかった。だって、父の方から私を男に近付けることなど初めてだったのだ。

「Xと呼んでやりなさい」

 街に特有の欠けた名前で、父は彼を呼んだ。


* * *


「だいたいぼくはクラシック奏者じゃないし、人に教えるのだって好きじゃない」

 落ち着いた穏やかな声や顔立ちとは裏腹の慇懃無礼な挑発は、父が音楽室を立ち去ってすぐに発せられた。

「そんなことを言ってもあなたはお父さまに雇われているのよ」

 反論すると彼は穏やかに笑んで答えない。「きみの口からお父さまに言ってやれよ。あの男は使い物にならないって」そんなことを言いたげだった。

「きみは何をしたいんだ? 誰に見せたいの? コンクールで勝ちたいのか、パーティーの席で披露したいのか、そういうことがはっきりしないと手の施しようがない。コンクールを狙うなら、お父さまが選評委員の誰かと仲良くなった方が手っ取り早いと思うけど」

 ピアノは淑女の嗜み。答えは何度も言い聞かされて身に沁みていたし、私もそうだと信じていたが、嘲笑を避けるためにはじめて無知の振りをした。今までの講師たちも、父と私と同じように、その答えを疑うことがなかった。彼ははじめての異邦人だった。彼は私たちの約束事の外側に住んでいる。

 結局、レッスンは、殆ど指導を受けることなく、むしろ講師が父に捧げるための課題曲を練習するさまを眺める時間になった。
 父はラヴェルを好み、甘く震える演奏を所望した。いつかは『亡き王女のためのパヴァーヌ』を私にも重ねようとしていた。
 様子を見に来る父は放任的な講師の態度に「習うより慣れろ」と好意的な解釈を決めつけた。父が去ると講師は延々と『ヴェクサシオン』を弾き始めた。

「ちょっと、やめてよ」

 何度目かの繰り返しで気分が悪くなった私は、たまらず演奏を中断させた。
 謝りもせず、彼はヴェクサシオンの主題を繰り返しながら少しずつ音をずらし、挿入し、『ジムノペディ』第一番へ移行させた。
 簡素な悲しみの曲は、簡素だからこそひとつひとつの音が間違いなく彼の手の中で震え、正しい繊細な憂愁が音楽になって部屋を満たした。

「きみが何をしたいのかという話だけど」

 弾き終えた彼はスツールに座ったまま語った。

「数多の曲を知りたいのか、限られた大切な数曲をその都度丁寧に弾きたいのか、自分のオリジナリティを持ちたいのか、臨機応変になりたいのか」

 それが分かっていないと何も出来ない。馬鹿を諭すように聞こえたのは、自分の存在の稚拙さに心当たりがあるゆえだ。
 時計が夕刻を指す。彼はスコアをぐしゃぐしゃに折り畳むとコートの隠しにねじ込んだ。彼は何があろうとも必ず定刻に屋敷を立ち去る。父を振りほどいたことも何度もある。
 本業はジャズピアニストだと明かされたとき、夜な夜なバーで弾いているのだと父は語ったが、

「お父さまがきみに語ったよりも10倍安くて下賤な酒場だよ。きみの召使いの召使いが行くような呑み屋さ。きみひとりで出向いたら身ぐるみ剥がされると思え」
「なぜそんな場所でピアノを弾かなきゃいけないの?」
「JAZZの語源は知ってる?」

 良くない言葉であるとは察したが、時間はそこまでだった。使用人が彼を屋敷の門へ連れて行った。


* * *


 切羽詰まった事情もない私のレッスンは蔑ろにされ、ベーゼンドルファーは父のためのラヴェルを延々と鳴らしていた。
 いやいや弾いているというのが正直なところだろうが、それでも演奏家として妥協を許せなかった。疲れると彼は掌を揉み込んだり、手慰みに例のヴェクサシオンの無限ループに陥ったり、本当に疲れ切った時にだけ私にも座席を譲るのだが、彼の前で私の生半可なピアノを聴かせたくなかった。

「あなたが言っていた、何のためにピアノを弾くのかって話だけど。あなたはどうしてピアノを弾くの」

 壁際の椅子に腰掛けてぼうっと紅茶を啜る彼に問いかける。彼にはぼうっとしている節がある。使用人の出入りにも、気付いているのか気付いていないのか分からない。

 ラヴェルの『ソナチネ』は何度も父に聴かせているが、父は飽き足りず、要望は増えるばかりだった。

「なぜピアノを弾くかって」
「お金?」
「きみは今冗談を言ったつもりだろうけど、それが本当だよ、世の中にはきみが思っているよりも遥かにシビアなことだらけだ。きみがそういった事態に出会えるかどうかはきみ次第だけど」
「後学としてそういう物事には出会った方がいいのかしら」
「きみがどう生きたいのかにも依る」

 そして立ち上がると私を押し退けて、何かを弾き始めた。知らない曲だった。今までの父のリクエストのような甘い憂いは無く、もっと明るく伸びやかで、けれども突き放すような渇いた響きを感じられた。
 今までに聴いたことのない手触りの曲調だった。私の聴覚は、父の音楽室から出たことがなかった。

「なぜピアノを弾くかって、消去法だよ。最初の楽器の選択権はぼくに無かった。そこにある楽器を充てがわれて、与えられた楽曲を言われたとおりに一生懸命演った」

 悲観的な物言いだったが、彼の奏でる音楽は決してベーゼンドルファーに劣らない。
 私よりもずっと一心に弾き続けてきたのだろう。そこには彼の生存と存在が賭かっていた。

「今、弾いていたのはジャズ?」
「そうらしいね。およそきみが思っているのは、こういうことだろうけど……」

 と、『亡き王女のためのパヴァーヌ』の一節を、いかにもな裏拍とスイングで聴かせた。

「さすがに今のは下品すぎるわ」
「きみのお父さまなら大激怒だ」

 でもこればかりがジャズではないよ、本当はこういうことも出来るんだ、と、次に聴かせたのは先の題名不明の一曲のような繊細さで明るく塗り直した『ジムノペディ』第一番だった。
 揺れる音と洒脱なメロディ。躁鬱や感情の喜怒哀楽ではない心地よさと喜ばしさ。『ジムノペディ』の挿入はさりげなく、時々立ち戻る程度に留まった。原曲を踏まえる気付きの楽しさもある。

「でも、本当は誰も聴いてないのさ、酒場の音楽なんてね。アルコールと喧騒にまぎれるBGM程度ってところで。だから気負わずにやれるってことなんだけど」
「そんなの勿体ない」
「なぜ?」

 冷たく穏やかな問いに、今日のレッスンの終わりを察した。

「本当に気に入りの人のために都度数曲を聴かせるのと、大舞台で何千人の涙を誘うの、大差ないんじゃないかって、ぼくは思うよ」
「素晴らしい演奏はひとを感動させるわ」
「それは使命感に燃えるひとの務めだ」

 きみみたいに賢いひとがやればいい。
 そう言い残して彼は夜に帰っていく。彼の住まう夜、私の知らない喧騒のなかへ、酒場のピアノを弾きに消える。


* * *


「誰にでも先生はいるものでしょう?」

 甘く苦しいラヴェルの合間に彼は秘密で彼の音楽を教えてくれた。
 そして渋りながら彼の物語を語った。
 誰にでも先生はいる。彼にもかつてジャズピアノの先生がいた。

「楽器は選べなかった。ぼくに弾けたのはピアノだけで、ピアノはあまりにぼくの能力を食っていた。ピアノ馬鹿が出来上がっていたんだよ。これしか持ち合わせていない、腕を失えば何も出来ない極端な人間」
「腕を失ったピアニストだっているわ。腕を失ったピアニストのための協奏曲も」
「ま、ぼくは、楽器でなくルールを憎んでいたのかも知れない」

 街に流れ着いた若い彼(年齢は教えてくれなかった)が出会ったのはジャズの奏法だった。
 ジャズピアノの先生に出会い、先生の下でその精神を学んだ。

「この楽器の音色や、これを弾くという営みは、嫌いじゃなかったんだと気付いた。良かったんじゃないかな、自分にこびりついているものを、根本的には嫌わずに済む」

『枯葉』という曲を少しだけ教えてくれた。スタンダード・ナンバー。
 アレンジの訓練などしたことのない私は、結局彼の弾いた通りにそのまま真似る、ジャズらしからぬレッスンに陥ってしまった。
 生真面目さを彼は笑った。

「でも、あなたも最初はこうだったんでしょ」
「誰でも最初はね」

 彼が軽やかで乾いたジャズナンバーを披露する度に、一方のラヴェルは悲愴感と甘やかさを爛熟させていくように聴こえた。

「ぼくは悲しい曲は弾きたくないし聴かせたくもないんだよ」

 十指を鍵盤に添えたまま呟く。

「悲しくなってしまうからね」


* * *


 門の外で彼が煙草を吸っていた。ちょうど、吸い殻を地面に落とし、踏みにじって消火したところを目撃した。

「だらだらと上達しないまま弾くんだったら辞めた方がいいんじゃないかって、私は思うんだけど」
「ぼくのことを言ってる?」

 馬鹿じゃないのと口走りそうになって、目を伏せた。彼は鉄柵の向こうにいて、コートの襟を立て寄りかかっている。
 閂は重い。

「どうしたらいいの、先生?」
「先生? そんな柄じゃないよ」
「子供にも分かるように教えて。何を辞めたら私は自由になれるの」

 鉄柵の隙間から外套に触れた。

「持てるものは持っておきなよ。捨てたものは戻ってこない」
「大人は賢明なのね」
「先生だからね……きみの歳の頃にはもっと愚かな選択をした」
「なにを?」

 そう訊ける程には、私の方が愚かだった。

「全部捨ててしまったんだ。名前から家まで、人生とかいうやつの何もかも」

 屋敷の者が背後で私を呼んでいる。声はだんだん大きくなる。彼は、振り返らない。

「でも、ピアノは残ったの」
「そう。どこまで逃げても、逃げた先に待ち構えてた」

 使用人がすぐ背後で私を待っていた。引き剥がされはしないものの、すべては監視下にあった。

「放っておいても何もかも消えて失くなる一方なんだから、きみにはまだ捨てるものなんてない筈だよ」
「もし、もし私にも名前がなければ、あなたと同等になれるの?」
「馬鹿なことを言うもんじゃない」

 少女が求める答えを大人は口に出来ないようである。それは倫理観や忠義心のせいだとばかり思っていたが、もしかしたら殆どの場合、大人はおのれの経験で語っているのかも知れないと、はじめて可能性の考慮に至った。
 立ち去る間際に見せた優しさは私にとっては十分過ぎた。

「大人になったらまたおいで」

 悲しいかな、私は恵まれている。
The Tiny Vexations

(繰り返すあの旋律のように)
(誰も変われはしなかった)


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