瞼の裏が眩しくて、ナマエは目を覚ました。糊の効いたシーツの上で寝返りを打つと、朝陽を背にしたリヴァイがネクタイを締めながら立っていた。
「起きたか?」
「おはよ……」
ナマエの寝起きは悪い。リヴァイは枕に手をついて、ナマエの額にリップ音のするキスを一つ。それからベッドサイドテーブルの腕時計を取って、自身の手首にベルトを回した。
「夜、ホテルで待ち合わせだっけ……?」
「ああ。六時には着く。めかしこんで来いよ」
「ん。リヴァイが買ってくれた赤のドレス、着てくね」
「ヒールは三センチのやつだ。愛してる。行ってくるな」
三センチ、とリヴァイは指定したものの、すでにドレスもハイヒールもクロゼットの傍に準備されている。リヴァイが先に起きて、出しておいたものだ。
「わかった。ありがとね。私も愛してる」
ナマエが寝ころんだまま顔を突きだすと、今度はちゃんと唇にキスをして、リヴァイは部屋を出て行った。
二人は今日、つき合い初めて一年を迎える。
記念日にホテルでディナーをし、スイートルームに宿泊しようと言い出したのはリヴァイだ。つき合い出した当初からリヴァイは仕事が忙しかったのだが、同棲を始めた二カ月前からは殊更に忙しい毎日だった。帰宅が日付を跨ぐことも珍しくない。せめて記念日の夜には日常を忘れて二人でゆっくり過ごしたい、というリヴァイのプランに、ナマエは大喜びであった。
ナマエは同棲中のアパートメントから程近い、チーズケーキファクトリというレストランでウェイトレスをしている。リヴァイは未だ、常連客でもある。いつもスーツ姿のリヴァイだが、ナマエはリヴァイの仕事の内容を詳しくは知らない。IT関係の会社に勤めている、とだけ聞いていた。
(今日は六時からリヴァイとゆっくりできるのかぁ)
ベッドの中でごろごろと寝返りを繰り返しながら、ナマエは高級ホテルのスイートルームを想像してみる。行った事もない場所だけれど、どれだけ素敵なのかは容易にわかる。
(そういえば、チェックインは三時から出来るんじゃなかったっけ……?)
スマートフォンに手を伸ばし、リヴァイからのメールを開いた。ホテルの詳細が転送されたものだ。
リヴァイの到着は六時。チェックインは三時に可能。
(リヴァイが来る前に、お部屋にバルーンやお花が沢山あったら素敵じゃない?)
ゴールドやホワイトのお洒落なバルーンに沢山の薔薇やローズマリーやジャスミンの葉。さっき想像していたよりも、ずっとずっと素敵になるはずだ。
思い立ったらいてもたってもいられず、ナマエはベッドから飛び出した。時刻はまだ朝の九時。急いで買い物を済ませれば、サプライズはきっと成功する。
*
恋人との愛の巣を出たリヴァイは、アパートメントの裏路地に停まっていた黒塗りのバンへと乗り込んだ。後部座席には壁面にモニタが敷き詰められ、足元は所せましに銃器用のハードボックスが詰まれている。
「おはようリヴァイ」
リヴァイのボスであるエルヴィンは、ドーナツとコーヒーを口に運びながら肩をすくめた。彼もまた、リヴァイと同じような黒いスーツを着込んでいる。
「今日は早くあがるからな」
「記念日だったか?仲が良いな」
食べかけのドーナツは、茶色いワックスペーパーの上に投げ出される。
「今日くらいはひと段落させてあげたいところだが……」
「させる。無理矢理にでもな」
そう言ってリヴァイは、一つのモニタの前に座り込むと、ノート型のパソコンを開いた。
IT関係の仕事、は建前だ。
リヴァイは国の諜報機関員として日々活動している。いわゆる警察とは違って、情報を扱うのがメインだ。基本的にネットワーク上にある、犯罪が起こる前の種を拾い出し、未然に防ぐというもの。
ここ二カ月は、とあるテロリスト集団の情報を追っていた。通常のネット回線とは違う、軍事回線の方に引っ掛かったメールには、近日中にリヴァイらの暮らす国に、秘密裏にテロリスト達が入国しようとしているプランがあるらしい。
「今日中には、例のプログラムが組み上がる。そうすりゃあ、奴らが防壁を出してた通話記録も盗めるだろう」
リヴァイは懸命に薄いキーボードを叩き続ける。
彼の頭の中にあるプランとしては、午後にはプログラムが組み上がる。いくつか情報を拾い出し、今後の予定を立て、五時には仮事務所としているこのバンから抜け出してナマエの元へ向かう。完璧なプランのはずだった。
しかしプログラムが完成した午後二時過ぎ。
「オイオイオイ……」
「どうした?」
それでまでずっと無言で作業を続けていたリヴァイを不審に思い、エルヴィンは自身が向かっていたモニタから離れて、リヴァイの隣へと身を乗り出した。
「もう入っちまってるらしいぜ」
「例のテロリスト集団が?」
「クソ(shit)!この間拾ったメールは偽物だった。一枚食わされたな」
「何?!」
リヴァイのキーボードを打つ指先が早くなった。ヘッドフォンをつけた彼は、音声を拾っている。
「奴ら……ホテルをアジトにしているようだ。堂々と、しかも高級ホテルにな」
画面に表示された五つ星の高級ホテル。それは今夜、リヴァイが予約しているホテルだった。
「リヴァイ、俺達も現場に向かおう」
「警察と特殊機動隊には俺から連絡する!」
スマートフォンを取り出したリヴァイはバンの運転席に移る。エルヴィンは助手席に座り、ホテルへのナビを開いた。
──突入は1600(ヒトロクマルマル)、正面玄関、非常口、全ての屋外に通じるドアから一斉に。通気口、窓、出口となりそうな場所は同時に封鎖。他の宿泊客らの安全第一だが、テロリストの所持する武器は、籠城されたらしばらく戦争が出来るレベルで保持されている。
時間が勝負だった。敵に武器の準備をさせる暇なく、押さえなくてはならない。
バンが走り出してしばらくが経った時。
『リヴァイ!少し早くホテルに着いちゃったからチェックインして待ってるね!早く会いたいな。楽しみ!』
ピロン、という緊張感の無い電子音と共に届く、恋人からのメッセージ。
「リヴァイ、脇見運転は危ないぞ……」
「メールを開いてよく見てくれ」
シフトレバーの辺りに置かれていたスマートフォンを持ち上げ、エルヴィンは目を見開く。
「まさか」
「その、まさかだ。ナマエはもうホテル内にいる。なんたってこんな時に」
「機動隊は所定位置に着いたと無線が入ったぞ。今お前が正面から中に入る事は叶わない」
大きな舌打ちが車内に響く。
「じゃあどうしろってんだ。俺の恋人を、テロリスト集団のいるホテルの中に置いておけってか?!」
「落ち着け。正面からと言ったが、機動隊にも指示してない突入口がまだ一か所、あるじゃないか」
エルヴィンは口角を上げ、自身のスマートフォンを開いた。連絡先をピックアップし、勿体ぶりながらリヴァイへと画面を見せつける。連絡先を見て、リヴァイはエルヴィンの作戦を悟り、「ハンズフリーでナマエに電話をかけてくれ」と頼んだ。
「ナマエ……出てくれ。頼む」
コール中、リヴァイは唇で祈るように呟く。苛立ちを指先に乗せ、何度もハンドルを叩いた。
「リヴァイ?お仕事終わったの?」
途端に響く、軽やかな声。隣のエルヴィンは声を潜めた。
「ああ、ナマエ。仕事はもうすぐ終わる」
リヴァイの声色を普段通りだ。朝キスした時となんら違わない、甘い声。
「そうなんだ!よかったー!私が今何してると思う?今ね」
「ナマエ、お前の可愛いお話しに付き合ってやりてぇとこだが時間がないときた。俺が今から言う事を、落ち着いて実行してくれ」
「へ?」
素っ頓狂なナマエの声。こんなにも緊迫した状況なのに、リヴァイはナマエのその表情が簡単に脳裏に浮かび、胸がぎゅっと絞めつけられた。
「ナマエ、お前のことなら何でもわかる。久しぶりのデートを楽しみにしてるお前はもう、俺が用意したヒールをはいてるだろうな?」
「あは。よくわかったね。そう、もうドレスに着替えちゃった」
「三センチのヒールなら、全力で走る事が出来るな」
「え……出来る……けど」
リヴァイは急ブレーキを踏んだ。ホテルから一路変更した進路は、緊急のヘリが着陸出来る近隣の高層ビルに到着したのだった。ハンズフリーにしていたスマホを耳に当て、リヴァイはエルヴィンと共に走り始める。
「俺もお前に会いたくて、今、走り始めてる。お前も走れ。落ち着いて、走って、屋上まで出るんだ」
「何?何を言ってるの、リヴァイ」
「大丈夫、俺を信じろ。部屋を出て屋上を目指せ。いい子だから」
リヴァイの耳元にはノイズが走る。きっと電話の向こうでナマエはドアを開き、廊下へ出ようとしているのだ。いくつかのノイズが続いたあと、急に息を上げたナマエが悲鳴のような声でリヴァイの名を叫んだ。
「どうした?!」
「い……今、廊下に出てきたら。遠くから銃声が聞こえたの!」
「ッ……お前の姿は見られてねぇか?!」
「わかんない……きゃあっ!また!」
ヘリコプターのプロペラが、すでにエンジン全開で回っている。リヴァイらを見た操縦士達は「すぐに出せます!」と叫んだ。
銃声が二発だけなら、まだ機動隊は突入していない。ひょっとすると、警察関係の人間がテロリストに見つかったか。あるいは他の宿泊客か。
「ナマエ、お前のために一等のスイートルームをとった。最上階だ。屋上にはすぐに出られる。回りに人影は無いか?」
「いないけど……怖い、怖いよリヴァイ。何なの?」
「落ち着けナマエ。お前の恋人は、この俺だ」
ヘリコプターに乗り込んだリヴァイは、スマホを肩と耳に挟んだまま、防弾チョッキを着込み、消音器(サプレッサー)付の自動拳銃(デザートイーグル)に弾を込める。エルヴィンも同様に、耳にはインカムも装着した。ヘリコプターはすぐに離陸する。
「リヴァイ!」
ナマエからの通話の音が、途切れ途切れになる。一般の通信回線だ。高度が上がると音声にノイズが混じる。
「もう着く。ナマエ、屋上には……」
「屋上に続く扉に、鍵がかかって入れないの!」
「近くに窓はあるか?ぶっ壊せ!」
ホテルの屋上の真上にヘリコプターが到着したのと、ナマエが豪快に投げたイスが窓を割って飛び出してくるのとは、同時であった。
リヴァイはヘリのスライドドアを開けて、身を乗り出した。着陸するのを待つ間も惜しい。しかしまだ、飛び降りるには高さがある。
決死の思いで窓を割ったナマエは、屋上へと転がり出た。割れた窓の破片でドレスの裾が破れてしまう。お守りのように握りしめたスマートフォンと目の前から、同じ音が彼女の耳を覆った。
「リヴァイ?!」
ヘリコプターから身を乗り出した恋人の姿。
「ナマエ!」
夕陽に照らされたヘリコプターから、眩しさを凝縮させたような光の粒が、ナマエに向かって落ちてきた。混乱していたナマエには、太陽そのものが落ちてきたように見えた。
持っていたスマートフォンを投げだしてナマエは手を伸ばす。どうしてかそれだけは、落としてはならない気がしたのだ。
「これ」
ナマエは呟いた。奇跡的にナマエのてのひらの中に落ちて来た輝きは、大きなダイヤモンドがついたリングだった。
「結婚するぞ!ナマエ!」
「えぇぇ?!」
ヘリが屋上へと近付く。リヴァイは着陸を待たずして、飛び降りた。
リヴァイの周りだけ重力が作用していないような身のこなしで、リヴァイは屋上に降り立つとナマエを抱きしめる。ナマエの耳を塞ぐようにして抱きしめたまま、自動拳銃(デザートイーグル)を取り出し、二発、発砲した。テロリスト一味のうちの二人がナマエを追ってきていたのだ。致命傷は外しているものの、確実に二人の脚を撃ち抜いた。そしてリヴァイは、ナマエを抱きしめていた力を緩める。
「プロポーズにはこれくらいのサプライズが必要だろ?で、返事は?」
「え……プロポーズ?……結婚?するに決まってるじゃない!」
ナマエはてのひらを開く。ダイヤモンドは、空中でキャッチした時よりも輝いて見えた。
「サイズはぴったりだ。間違いねぇ」
リヴァイの隣をエルヴィンが、口笛を吹きながら通りすぎていく。ホテルの階下では突入が決行されていたが、テロリスト集団は特殊機動隊の活躍によって、敢え無く一斉に取り押さえられていた。
「ね、リヴァイが指輪、つけてくれる?」
「そうだな」
薬指を飾る愛の証。リヴァイが言った通りに、ナマエのサイズぴったりだ。
「……嬉しい。でもね、リヴァイ」
「あ?」
「私もホテルの部屋で、こっそりサプライズしようとしてたの。でもリヴァイのサプライズのあとだったら、なんだか霞んじゃうわ」
「馬鹿だな。言わなけりゃあ、俺は驚いてやったのに」
おどけたようにリヴァイが言ったので、ナマエもつられて笑う。二人は指を絡め合いながら、熱いキスを交わした。背後ではまだ、ヘリコプターがプロペラを回して、二人の誓いを祝福しているようだった。
プロポーズ大作戦