空は高い。突き抜けるような青の足元には遠くまで続く野原。花が咲いている。名前は知らない。
そして壁。
緩急のある原っぱの先、壁は視界の下の方にある。
──私はいつからこの景色を知っていたんだろう?
ずっと昔からここにいたような気がするし、つい昨日、初めて来たような気もする。
「オイ、お前……こんな所で何をしてる」
声。男の人の、声。
「お前ら、地区ごとに分けられたんじゃねぇのか?」
「地区?」
白いコートを羽織った黒髪の男の子、だった。男の人、かもしれない。上手く頭の中で分別が出来無い。
「また記憶の改竄が上手くいってねぇか……まぁ、人の事を言えないが」
どう返事をしていいか分からずにいると、彼──そう、彼と呼ぶことにしよう。彼は私に近付いて来た。そんなに背は高くないみたい。
「あとでお前の家になる場所まで送って行く。大丈夫だ、多分わかる。お前達は道で繋がっているらしいからな」
彼は意外とよく喋る。目付も鋭くて無表情なのに。
「天気が……いいね」
「ここは楽園だ。天気も良い」
彼の腰には大きなサーベルが下がっている。誰かと戦うのだろうか。サーベルを下げたまま、彼は私の隣に座った。彼も壁を見ていた。
「親は一緒なのか?」
「親……?」
親って、両親のこと?あれ?私の父さんと母さんって……誰だったっけ。
「ああ、そうか。そのうち出来る。気にするな。ここにお前がいるってことは、お前の元の両親はそれなりに頑張った。よかったな」
彼の言う事は何一つわからない。けれど彼が私を励ましてくれていることはわかったので、私は頑張って口角を上げた。嬉しい気持ちを表わすには、そうするのが最善であった気がする。
「ここは壁の中でも一番奥だ。いつまでも、安全なはずだ」
物憂げな表情で彼がそう言えば、遠くで白い鳥が群れを成して羽ばたいてゆく。風が瞬く。彼の黒い前髪を揺らす。
「そっか……そうだね。王様が、私達を守ってくれるんだよね」
「何だ、覚えてるじゃねぇか」
「あ!」
そうだ、王様だ。王様が私達を、巨人から守ってくれている。この壁の中の世界で。
ここは楽園。守られた小さな世界。とても安心するはずなのに何故だろう?記憶がどこかちぐはぐで、彼は夢の中の人みたいで、私は私がわからなくて、
私は急に不安になって。
「ねぇ……初めて会った貴方にこんなこと頼むの、変だってわかってるんだけれど」
「何だ?」
「少しだけ、私のことを抱きしめて」
彼は目を見開いて、綺麗な灰色の瞳を私に向けた。駄目とも言わずに、立ち上がる。
「俺は王に仕える身だ。でもそれは、お前達ユミルの民を守ることに繋がる。そう、信じている。今は」
視界が白い。彼の腕の中にいるからだ。こんな白、今まで見たこと無い。きっと高貴な身分の人なんだろう。
彼の腕の中はひどく安心した。懐かしいような気分になる。きっとこれが、道だ。泡沫の記憶の中にいる私には、まだかろうじて道が見える。
過去か、未来か。
彼は自由の翼がついた上着を羽織り、やっぱり私を抱きしめている。私は彼の襟元の白いスカーフに顔を埋めている。私も彼と同じ上着を着ている。よかった、「そこ」の私は彼と毎日一緒なのだ。物の輪郭がはっきりしている。腰には刃が下がっている。私も同じものを着けていた。私と彼は恋人同士。どうやってそんな仲になったかまでは見えない。でも私達は唇を重ねて、お互いの手に触れ合った。恥ずかしい、嬉しい。幸せ。
「……何か見たのか?」
そう言ったのは、今目の前にいる彼だ。私の顔が赤くなったから、不思議に思ったのかもしれない。
「きっと、すぐに見えなくなる。でも、私と貴方は……」
ああ、待って。もう少し彼に気持ちを伝えたい。好き、愛している、側にいて。思いつく限りの恋しい気持ち、全部。
それなのに記憶は薄れてゆく。壁が見える。
「……そろそろ送って行く」
彼は私の一歩先を歩き始める。陽が暮れかけていた。あの太陽が沈む先を想って、私は泣いた。振り返る彼がどんな表情をしていたのか、もう、思い出せない。
7日目の世界