▽ ワルキューレへ捧ぐ
エルヴィンの腕が無くなった時、私は空虚な右側にしがみ付いてさめざめと泣いた。
多くの兵に指示を出し、壁内の未来を示し、私を抱く大きな腕。それが1本足りなくなってしまったのだ。悲しくないはずがない。私がエルヴィンの腕の代わりになるからねと言えば、彼は「もう十分だ」と少し茶化すように言った。
私はいつもエルヴィンに従順であったので、今回の作戦にエルヴィンが参加する事にも異を唱えなかった。
「そういう所が私とリヴァイの違う所なのよ」
リヴァイが地下街から調査兵団へやって来たのと同じ頃、私は憲兵団からエルヴィンに引き抜かれた。いわば私とリヴァイは同期で、今ではもう数少ない昔馴染だ。だから私はエルヴィンの次に、リヴァイには本音が話せる。きっとリヴァイも同じだと思う。
「あ?お前のはそりゃあ、ただの媚びだ。クソの役にも立たねぇ役職なんて売っちまえ。良い値が付くぜ」
「なんですって?大体リヴァイはいつもエルヴィンに反抗しすぎなのよ!最近新兵がずっと近くにいたから私も黙ってたけどね、今日は言わせてもらうんだから!」
「よしなさい2人共。喧嘩をするために俺の部屋に入る習慣は、そろそろ直さないか」
エルヴィンに言われて先に黙ったのは私の方だ。リヴァイはまだ、なんだかブツブツ言っている。
「今のはナマエが先にしかけたな。ナマエからリヴァイに謝りなさい」
「ごめんなさい」
「俺はお前のそういう所に虫唾が走る」
すぐに言い返そうと思ったけれど、エルヴィンは目だけ笑っていない笑顔で私を見ている。悔しいけれどもう黙っておかなくちゃ。
右手が不便なエルヴィンを手伝って、時間があれば私もリヴァイも、それから新しい武器の開発の合間を縫ってハンジも。よくエルヴィンの執務室にきては、堂々巡りのこの話題を持ち出した。
ウォールマリア奪還作戦にエルヴィンが行くのか、行かないのか。もちろん、エルヴィン本人が行くつもりなので決定はしている状態だけれど、リヴァイはそれに文句をつけるのだ。気持ちはわかる。私だってエルヴィンが心配。何より無事でいてほしい。でもエルヴィンが行くって言うのだから。
***
ようやく部屋の中の騒音であるナマエが出て行きやがった。これで静かになる。俺とエルヴィンは黙々と書類を片付けていく。
「俺の右腕は、矢張りリヴァイだな」
唐突にエルヴィンがそう言ったので、俺は一瞬奴の意図を探った。
「買いかぶるな。死ぬ気か?」
「違う。そういう意味じゃない。ナマエの配置だ」
エルヴィンの机の上を覗き見ると、そこにはシガンシナ区の地図が広げてある。俺が執務に手をこまねいている隙に、お前は作戦立案か。悪くねぇが納得はいかねぇ。
「何に悩んでる。ナマエみたいな奴はお前の近くを飛ばせておけばいい。兵を率いる能力には欠けるが、団長の命令を聞く耳だけは一流だろうが」
「だからだリヴァイ。ナマエだから、悩んでいる。これは完璧に私情だな」
「らしくねぇな。考え直せ、お留守番がいいんじゃねぇか?今までの壁外調査でも、お前はナマエを贔屓したことなんざ一度もねぇ。容赦無く最前線に駆り立ててきた」
「ああ。それで生き残って来た。俺も、ナマエも、リヴァイも」
エルヴィンがため息を吐いた。本当にらしくない。少なくとも、今俺の目の前にいる男は団長としての体を成してねぇ。おそらく、ナマエと2人の時はこんな顔をするんだろう。
「リヴァイは右腕だ。だがな、団長に右腕が無くなったとしても兵団は機能するらしい。ナマエはそういうわけにはいかない。あの子だけは、置いていけない」
「いよいよ……イカレちまったか?」
「そのようだ」
エルヴィンとナマエ。こいつらが時たま、夜同じ部屋に入っていくことを俺は知っている。ナマエに限っては手なんぞ振ってきやがる。迷惑な話しだ。しかしエルヴィンはナマエを真っ直ぐ見ていないものだと、思っていた。思っていたのは、俺だけだったようだ。
俺がお前の右腕なら。あいつは、ナマエはお前の番いなんだろうな。エルヴィン。
***
本当は気付いてたの。今回の作戦が最期かなって。だってエルヴィンは、出立前のベッドの中で私に「愛してる」って言ってくれた。今まで、一度も言ってくれたことは無かった。
でもその「愛してる」が無かったとしても、私は同じように付いて行くの。私は他の兵達と違って、恐怖は無かった。私の恐れることは一つだけ。エルヴィンと離れてしまうことだけ。
だからこの捨て身の作戦も、エルヴィンの隣なら怖くない。エルヴィンの声が響く。大好きな声だ。同じように、走り出していける。
これが幸せだって言ったら、貴方は笑う?
私はエルヴィンの左側で、必死にエルヴィンを見失わないように馬を駆った。きっと最期の瞬間まで、エルヴィンは私を見ない。でもいいの。今この時、一緒に同じ景色を見ていられるなら。
***
ああ嘘だろオイ。ふざけんな、クソが。
アルミンに注射を打とうとした所に、新兵がエルヴィンを背負って戻ってきた。エレンとミカサが俺を止めようとする。俺はエルヴィンに注射を打つからだ。
ミカサはやたらと力が強い。そういえばコイツは俺の親戚にあたるかもしれねぇって話しだ。無理もねぇ、とかどうでもいいことが脳裏に過ぎる。ハンジがミカサを止め、俺の班員が全員その場を離れて行く。刹那、壁の向こうから立体起動で飛んでくる影。
屋根の上には焼け焦げのアルミンと、内臓がえぐれたエルヴィン。俺は、エルヴィンに打つのか?
***
目が覚めて一番にエルヴィンの姿を探した。まさか、最期まで隣にいたはずなのに。周囲を見渡せば死体の山だった。全員が死体になったのだ。でもそこにエルヴィンがいない。
「エルヴィン……エルヴィン!」
立ち上がったら喉から湧き出すように血が溢れてきた。きっと内臓をどこかやられてる。見えるものの色がおかしい。どうしよう、こんな時に彼の姿が無いなんて。ひどい。
遠くで何かが動く気配がした。目を凝らせば、エルヴィンを背負う新兵の姿があった。待って、行かないで。もう私からエルヴィンを奪わないで。必死で、追いかける。
***
──結果、俺はアルミンに注射を使った。
「ナマエ、とにかくあっちで応急処置をしよう。とんでもない出血じゃないか……」
隣でハンジがナマエをなだめようとしたが、ナマエは首を縦に振らなかった。エルヴィンを寝かせるなら自分も一緒に行くと、言って聞かなかった。
「ハンジ。とりあえずエルヴィンをどこかに運ぶ。そうでもしねぇと、コイツも動かせねぇだろう」
「そうだね……ナマエ、立てるかい?エルヴィンを動かすよ。一緒に行こう。それから、怪我の手当てをさせるんだ」
エルヴィンから目を離さず、息を上げ、ただ目を見開くナマエは野良猫さながらだ。気の立った雌猫。俺がエルヴィンを担ぎ、ハンジがナマエに手を貸した。
比較的崩壊の少ない空き家を選び、ベッドの上にエルヴィンを横たえると、ナマエはすぐにそこへと飛びついた。エルヴィンの右側に、縋った。
「治療の道具をこっちに持ってきた方がよさそうだ……リヴァイ、ちょっと見ててくれるかい?」
「ああ」
ハンジの奴も怪我をしてる。オイナマエ、ここにいる全員満身創痍だ。お前に構ってる時間はねぇ。
***
(涙は出なかった。)
ナマエは泣かなかった。
(泣く必要がなかったから。)
もう覚悟を決めたんだろう。
(どうしてかリヴァイは)
どうしてかナマエは
(私と目が合い)
俺と目が合い、
(手を伸ばしたら)
手を伸ばしてきたから
(私を抱きしめた。)
きつく抱きしめた。
「お願い……リヴァイ。ここで、私も、死にたい」
きつく抱きしめる。きつく、きつく抱きしめる。息が止まってしまうくらいまでに。
ナマエの細い首を握りしめれば、呆気無く息は絶えた。不思議と、アルミンに注射を使った時ほどの迷いは無かった。ナマエはエルヴィンの右側へと埋まる。お前、幸せそうだな。
なぁ、ナマエ?
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