▽ 恋が明日を見せる
背中に赤い2つの薔薇を背負ったナマエを見て、門番をしていた調査兵は少し怪訝そうな顔をした。仕方ない、ナマエは見てくれからして下っ端駐屯兵であるし、今このタイミングで駐屯兵団が調査兵団に何の用だと不思議に思われるだろう。
「明日のリフト昇降の件で打ち合わせがありまして。確認を取りたいのですが、構いませんか?」
ナマエの声は震えていた。やっぱり、通しては貰えないかもしれない。
「確認?誰と?」
「……リヴァイ兵士長、と」
語尾が尻すぼみだった。門番は一瞬思案し、にやりと笑ってから「どうぞ」と顎でしゃくった。目的はきっとお見通しなのだ。
明日、ウォールマリア奪還作戦が開始される。
調査兵団は今回の作戦に先立って、他兵団から多くの新兵を勧誘していた。ナマエもその時に本当は調査兵団に移ろうかと考えた。でも駄目だと思ったのだ。動機が不純すぎる。リヴァイ兵士長の側にいたいから、なんて。そんなまさか。
そもそもナマエは訓練兵団でも成績は上位10名に入れず、多くの訓練兵がそうであるように駐屯兵を志願した1人だ。しかし安穏とした毎日に、文字通り大きな衝撃を与えたのは数カ月前、超大型巨人がトロスト区の壁門を破った時だった。
調査兵団は運悪く壁外調査に出たばかりで、多くの駐屯兵や訓練兵までが命を落とした。巨人化能力を有するというエレン・イェーガーの活躍により、壁門は大岩で塞がれたが、壁内には多くの巨人が入り込んでいる始末。どうにか生き残っていたナマエは、壁門近くで巨人の殲滅にあたっていた。
ナマエにとって、初めての巨人との戦闘。
戦闘というより、逃げ回っていただけだ。一瞬でも気を抜けば奴らはひょいと手を伸ばしてきそうだし、アンカーはうまく思いの場所に定まらない。圧倒的な実践と訓練不足。そのうちにガスの残量も少なくなって来る。まずい、今すぐに壁に登らなければガスが切れてしまう──
ナマエは壁門近くに向かってアンカーを放った。しかし突然背後から現れた10メートル級奇行種は、ナマエの放ったアンカーを掴んだのだ。体は重量を無視して、ぐいと真横に引っ張られた。一瞬で視界が真っ白な線を描き、同時に思考も停止させる。
(食われる……!)
背中に大きな衝撃を受ける。すでにナマエは巨人の手中に収まっていた。大きな口、においの酷いそれがナマエを飲み込まんとしたまさにその時。巨人の項の後ろを線が走った。1回、2回。残像が瞬く最中、巨人の体は大きく横によろめく。
「怪我は」
ナマエの体は宙に浮いた。背中を包んだのは細く、それでいて力強い手だった。それは自由の翼を背負った、リヴァイだった。
「あ、ありません!」
「そうか。調査兵団の補給部隊がすぐそこに来ている。あっちの方はあらかた片付けた後だ。1人で行けるな?」
はい、と返事は言葉の音を持たなかった。息を飲んだ。文字通り死ぬほど怖い想いをして、死ぬ寸前であったのに。ナマエはリヴァイの方に心を奪われていた。それまでに見た悲惨な景色も、全ての事象を、リヴァイが攫って行った。
横抱きにされていたナマエは、リヴァイが飛ぶまま、ふわりといくつかの屋根を越してから地面へと降ろされた。リヴァイはすぐに、他の兵らの方へと飛んで行く。背中の羽根が翻る。本当に、飛んでいるみたいだった。
(我ながら情けないとは思ってるのよ。こんな、片思い)
──平素よりいささか賑やかしい本部内に足を踏み入れ、ナマエは一瞬振り返る。門番の調査兵は面白そうに、ナマエの方を見ていた。
門番の様子からするとナマエみたく、この期に及んでリヴァイに想いを打ち明けようとする他兵団の兵士は少なくないのかもしれない。意外とモテるという噂だ。
勇んでここまで来たものの、やっぱり二の足を踏んでしまう。なんといっても、ナマエはトロスト区で助けてもらって以来、まともに口を聞いたことも無いのだ。
(恥ずかしすぎる。顔すらちゃんと見れないのに……!)
やっぱりやめておこうか。ぐずついた思考をどうしても降り切れず、ナマエは門番の方に振り返った。しかし。
視線の先に3人の人影が動いた。件のエレン・イェーガーと同じ104期の2人だ。3人は食堂から少し離れた場所で話していたらしく、会話を続けながら立ち上がる。金髪の少年が空を指さすと、左右の2人も同様に夜空を見上げた。3人はおそらく、寮の方へと向かっている。明日に向けた緊張感を保ちながら。
3人が去った後、開けた扉の向こう側に人影があった。髪は黒い、着ているものも黒い。暗い中に溶けてしまいそうな雰囲気の、リヴァイの姿。
(……!)
壁に背を預けたリヴァイは、手元にカップを持ったまま座り込んでいる。さっきの3人の話しを聞いていたのだろうか。
(私の話しも、聞いてもらえるかな)
明日に向けた彼等と比べると、とてつもない小さなナマエの心臓と勇気。ここからナマエも変わる事が出来るだろうか。壁内の未来を繋ぐリヴァイ達には、眩しくて届かないかもしれないけれど。
ナマエはそっと、壁越しにリヴァイと背中合わせになって、腰を降ろした。リヴァイはすぐにナマエの存在に気付き、振り向こうとする。
「すみません。そのまま、聞いて頂けますか……?」
「あ?」
門番と違わぬ、怪訝そうな声色だった。
「急に……こんな時に、本当にすみません。トロスト区駐屯兵団所属の、ナマエと申します」
「ああ……あの、ナマエか」
あのナマエ?
(私の事、知っていてくれたのかな)
「駐屯兵が何の用だ」
リヴァイはナマエが言った通り、ナマエの方を向かない姿勢で話しを聞いてくれるらしい。長く時間を取らせるわけにもいかない。震える体を奮い立たせ、ナマエは口を開いた。
「リヴァイ兵士長に、お伝えしたいことがあって」
定まらない視点を、無理矢理抱え込んだ自身の膝頭に落とした。
「以前私は、トロスト区でリヴァイ兵士長に助けて頂きました」
「大型巨人が攻めて来た時か」
「は……はい!あの時から私……」
言葉は詰まる。ただ一言、返事なんて貰えなくていいから。ただ今、伝えたいだけなのに。
背中越しの向こう側、コトリ、と小さな音が響いた。リヴァイが、持っていたカップを置いたようだ。肌寒い空気も、ナマエに合わせて震えている。
「す……好き、でした」
一瞬でナマエの頬だけに熱が集まった。顔中が熱い。それでいて、体の四肢全てが貧血になったように冷たい。まだ食堂の方からは調査兵らの喧噪が響く。リヴァイの方だけが、静か。
「そ……それだけ言いたくて。お忙しい所、失礼しました!」
それが限界だった。これでは言い逃げだ、ナマエの自己満足だ。
リヴァイが立ち上がるより早く、ナマエはその場から走り去った。振り返ることもしなかった。どうか明日から頑張って下さい。こんな私には、これ以上のことは何も言えないけれど──そう想いながら。
翌日の夕刻
トロスト区の開閉門近くでは、調査兵を初めとした各兵団の兵士でごった返していた。開閉門は使えないので、シガンシナ区へ向けた調査兵らは皆、リフトで壁の向こう側へと降りるのだ。駐屯兵であるナマエも、諸々の準備を手伝う任務が充てられている。
昨夜調査兵団の門番をしていた兵士もいた。「ほら、リフトの確認は済んだのか?」そう言ってその調査兵は、ナマエを肘で突いた。視線の先には、ちょうど愛馬と共にリフトに乗り込むリヴァイの姿がある。
(顔……見れない)
慌てて人混みに紛れようとしたが、それは叶わなかった。
「オイ、ナマエ!」
よく通る声。
一目惚れをして以来、ずっとナマエが探していた、声。
でも少しだけ怖い。何を言われるのか。もしかすると、昨夜のことを咎められるのかもしれない。ナマエは恐る恐る、リヴァイの方へと視線を移した。リヴァイの乗ったリフトは開閉部分が閉められ、昇降担当の兵がリヴァイの乗ったリフトを上げようとしていた。リヴァイはもう一度、ナマエの名を呼んだ。
「リヴァイ……兵士長……」
リヴァイはナマエを手招く。リフトが僅かに上がる。
駆け出していた。なんと言えばいいのか、わからぬまま。リヴァイが、ナマエの名を呼んでくれたことが嬉しかったのだ。
「リヴァイッ……!」
ナマエが目いっぱい見上げた位置に、リフトは上がっていた。リヴァイの腕がリフトから伸びる。かろうじて、リヴァイはナマエの兵団服の襟ぐりを掴んだ。両手で、左右から、ぎゅっと持ち上げる様にしてナマエを引き寄せると、そのまま短いキスをした。
「昨夜の返事は、帰ってから聞かせてやる」
ぱ、と呆気なく離される両手。少しだけ浮いていたナマエの爪先が地面を踏みしめる。悪戯な笑顔を携えたリヴァイが、壁上へと昇っていく。
(今の……返事じゃないの?)
リヴァイは帰還してくる。今のはきっとおまじないだ。また会える、おまじない。
触れただけの唇をなぞり、ナマエは壁上を見上げた。リヴァイに向かって心臓を掲げる。調査兵らが並んでいる。眩しい未来が、そこにはあった。
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