▼ メディアノーチェ
空気が動かないさまを、どう言ったらいいんだろう。
地上の人間が入植する予定があった時には、大勢の人が暮らすことを想定していたせいか、高い建物は多い。私が暮らす部屋は六階に位置している。
入口から部屋に入るまでは雑多とした階段を上ってこなくてはならなくて、人やナイフが散らばっていることもままある。タイミングを間違えると、帰宅するにも命がけだ。
窓からの眺めはいつも変わらない。
ぽつぽつとした申し訳程度の明かりが、動かない空気の中に点在している。地上では明確に朝と夜の区別がついて、夜には空に光が瞬くんだそうだ。私は一度も見たことがない。永遠に同じ、夜空に憧れたまま時間が止まっているような、地下街の景色があるだけ。
今日も同じ薄暗い中で、外を眺めながら仕事をしていると。
遠くで火の明かりとはまた違う、何かが光ったのが見えた。ちかちかと、噂に聞く星のようにそれは点滅し、私の住む建物へと近付いてくる。
「……鳥?」
思わず呟いて立ち上がる。窓から身を乗り出すと、建物と建物の間に繋いだロープに干してある洗濯物が揺れていた。風がないので「そよぐ」を知らない。でも光が近付いてくるとともに、私のスカートやお隣のおばさんのショールが緊張しているかのようにそよぐ。次いで、音。ライフル銃が壁を撃ったような音のあとに、キュルキュルと聞き慣れない音が等間隔で近付いてくる。
耳を澄ませているうちに、正体はあっという間に目の前に現れた。
「どけ!危ねぇ!」
音の正体が私の部屋の窓のすぐ側を刺し、驚く間もなく目の前に現れたのは男だった。ワイヤーに繋がった彼は、私を押し倒すようにして窓から飛び込んでくる。仕事道具の針や糸が、四方八方に飛び散った。
「っきゃあ!」
身をかわす暇などなくて。思わず目を閉じて、背中に衝撃。目を開けると、男の顔が真正面にあった。
「オイ、死んでねぇか」
「な……なんなの」
窓から飛び込んでくるお客さんなんて初めてだ。男の腕の間で身を小さくしていると、今度は玄関の方から足音が響く。一人や二人じゃない。厚いブーツのいかつい足音とともに、薄い壁を越えて声が響く。
「こっちに飛んできたぞ!」
「多分この部屋だ、武器は持ったか?!押し入るぞ!」
「全員集めろ!上がってくるように他の奴らも呼んでこい!」
物騒極まりない相談ごとが口早に行われている。私を組み敷いていた男は小さく舌打ちを零すと、私の手を引いて立ち上がる。
「悪ィな。巻き込んじまった」
「巻き込むって……あの、えっ?」
次の瞬間、男は私の体を持ち上げた。まるで小麦の入った袋を肩からかつぐみたいにして、そして。
「っひ!」
景色が全部置き去りになる。
男が窓から飛び込んできたときとは真逆に、今度は窓から飛び出した。目を開けていても景色は線になってしまうので、私はすぐに目を閉じる。
「俺の隠れ家まで尾けられちまったら困るからな。少し遠回りする」
男はどうやら私に言っているようだ。でもそんなこと、言われたところで私に何かを言う手立てもなく、まともに喋ることすらままならない。
風にもみくちゃにされながらようやく下された時には、足腰がふらふらになっていた。
「オイ……歩けるか」
「なんとか」
男の隠れ家とやらは玄関が階段の先にある。私の足元があんまりにも覚束ないのに痺れを切らし、男はため息を一つ吐いてから手を貸してくれた。
「少し外の騒動が収まるまでお前もここにいろ」
「はぁ」
ようやく彼の横顔を見る。私の肩を支える半分の顔は端正な造りをしていた。黒髪、切れ長な目、薄く開く瞼の間から光る灰色。ゆっくりゆっくりと階段を上がって玄関の戸が開いた所で、彼に見惚れていたのだと気付いた。
そして通された部屋の中。
ソファやテーブルや簡易のキッチンや。古臭いタイプのチェーンを降ろして明かりを灯すシャンデリア。どれもがありふれたものなのに、彼のすっと通った鼻筋のように、すべてが整然と並んでいた。丸いものを尖らせるように磨き込まれた床や家具は、ひと目で住人の綺麗好きが伺える。
「適当に座れ」
テーブルの椅子の前までくると、彼は私から離れた。
「えっと……とりあえず、貴方の名前を聞いてもいい?」
ブラウスの襟が白い。明かりの点いていない薄暗い部屋の中で、白さが目立っていた。茶色のベストから伸びた白が、円を描いてこちらを向く。
「リヴァイだ」
「リヴァイ……」
「お前は」
「私はナマエ」
よろしく、なんて挨拶も交わさずにリヴァイは壁にかけてあったチェーンを引っ張り、シャンデリアを降ろした。うちのチェーンは錆びてひどい音がするのに、リヴァイの部屋の滑車はするするとロープのように滑り落ちる。五本のロウソクに明かりを灯したリヴァイは、シャンデリアを再び天井に引っ張りあげる。埃一つ立たない。
綺麗な部屋とはそれだけでどこか、人の気持ちも綺麗にして安心させるようだ。初めて知った。
五本分の明かりの中、リヴァイは私が座るテーブルに背を向けて、キッチンに立った。
「メシは済ませたか?」
「決まった時間に食べないの。いつも食べられるとは限らないから」
「そうか」
そもそも朝晩の概念が地下にはない。食べられる時に食べる。きっとこんな風に暮らしているのは私だけではない。
「さっき……お前の部屋、荒らしちまったが。何か仕事をしてたのか」
「あんな一瞬で見ていたの?」
素直に驚いた。入ってきた時は私にかぶさっていたから、部屋なんて見る余裕はなかったと思ったのに。
「布やら針やらあったのが見えた。仕事の道具だったか」
「そう、一応仕事。ゴミ捨て場とか……色んな所から靴を集めて修繕してるの。左右バラバラのものを揃えて、一足にして売る。それが仕事」
「売れるのか?」
「売れてたら決まった時間にご飯が食べられる」
リヴァイは石造りの窯に火を入れ、戸棚から大きなパンを取り出した。最近は小麦も滅多に手に入らないから、顔よりも大きなパンなんて、久しぶりに見た。
部屋の中と同じくらい、きちんと揃えられたパン切り包丁や板の上でパンはスライスされていく。分厚く切られる様子が、なんだかリヴァイの優しさみたいだった。
「で、リヴァイは?どうして追われていたの?」
「あ?聞く必要あるか?あんなモン着けて逃げ回ってりゃ、大方想像はつくだろうが」
「あれって、立体起動装置……だっけ?憲兵の人とかが着けてるやつよね。どうしてリヴァイが持っていたの」
「買えるモンじゃねぇからな」
「ふぅん……」
パンを切り終えたリヴァイは、くるりと私の方を向いて歩き始めた。何かを取りに行くらしい。玄関の側近くには私の肩ほどの高さの棚があって、その上の紙袋を手に取った。茶色の古ぼけた紙を荒くほぐすと、中から出てきたのは。
「え、まさかハム?!」
「今日はバターとチーズもある。良い日にきたな」
彼の口角がななめに釣り上がる。
「それって……私の分もあるってこと?」
「最初からそのつもりだ」
リヴァイの言う通り、今日は良い日だ。立体起動装置はとても怖かったけれど。
今度はハムとチーズが厚切りにされる。遠目から見ても瞭然なほど厚さが均一で、規則正しいスライスに、なぜか私は私の仕事を思い出した。集めた靴は大抵が左右不揃いなので、かかとやつま先を切ったり詰めたりして揃える作業が必要なのだ。しかしリヴァイの作業にはその手順が必要ない。リヴァイは私の持っていないものを、最初から持っているみたいだった。そうやって、ハムとチーズを切った。
「リヴァイはいつから地下で暮らしてるの」
私が問いかけると、返事までに少し間があった。少しの沈黙の間に、彼はパンにハムとチーズを挟むという作業を繰り返した。いくつか言葉にならなかった単語は、ふわふわのパンの上に吸い込まれてしまったかもしれない。
「……生まれた時からだ。ここで生まれて、育った。ナマエは」
「私も。母さんも同じ仕事をしていたの」
「靴を?」
「うん。靴を作ってた」
それ以上、リヴァイは聞いてこなかった。私もそれ以上聞かなかった。話題からこぼれた人は生きていないのが常だから。きっとリヴァイのお母さんも、早いうちに亡くなったんだろう。
実はこんな風に誰かと長く会話するのは、私にとって久しぶりのことだった。
ご近所つき合いは大事にしているから、靴を買ってくれる同じ建物に住む人たちとか、酒場のおじさんだとか。挨拶を交わす人はたくさんいるけれど、友人と呼べる人はいない。友人と呼んでしまうほど誰かに心を許すと、裏切られてしまった時に命に関わる。そう、母さんに教えられた。
私の母さんは、靴を作る仕事が上手だった。不揃いな靴も母さんの手にかかると、まるで最初から番いであったかのように、新品に見違える。左右がきちんと揃えられるかどうかは、最初に靴を揃えてみたとき「しっくりくるかどうか」にかかっているらしい。
別々の場所で生まれ、別々の道を歩み、違う人間と携わっていた左右それぞれが惹かれ合い、ぴったり揃うかどうかは運命に近い。だから私も上手に靴が作れるようになるまで、安易に人を信用してはならないのだ。
「いいにおい」
古い記憶をじゅわじゅわと溶かしてしまうような、バターのにおいが漂う。
「焼いて食べるの?」
私が尋ねると、リヴァイは「ああ」と言って手元を動かした。熱したフラパンの上に、二人分のサンドイッチが並ぶ。焼いて食べるサンドイッチなんて初めてだ。なんて贅沢なんだろう。
「仕事が成功した時、仲間と食べることが多い」
「そのサンドイッチ?」
「ああ」
「リヴァイには友達がいるの?」
リヴァイは木べらを使って、パンを軽くプレスした。バターがパンにしみ込んだのを確認して、手際よく裏返す。少し椅子の上から背伸びをすると、こんがりと焼けた面が表を向いていた。
「友達というか……仲間、だな」
「へぇ、いいなぁ。私にはそんな風に呼べる人、いないから」
「つるむ相手を間違えると下手すりゃ死ぬ。お前の生き方は、それはそれで利口だ」
私は少し卑屈に言ったつもりだった。でもリヴァイから返ってきたのは肯定だ。私が持っていないものを、当たり前のように全部持っているリヴァイからの、肯定。
きっと彼は、強い正しさを知っている。自分のことは何一つ認めないくせに、彼の持っている正しさは、厳しくも他人に優しくあるのだ。
焼きあがったサンドイッチは、正しい点と点を線で繋ぎ、真ん中で切り分けられた。大きなお皿にそれぞれ二切れずつのサンドイッチが乗る。
「冷めないうちに食え」
「あ……ありがとう」
テーブルの上にお皿が並んでも、リヴァイは座らずに今度は飲み物を準備し始めた。どこまでも几帳面のようだ。
リヴァイがテーブルにくるまで待とうと思ったけれど、途中でリヴァイが振り返り「とっとと食え」と私を睨んだ。あんまりにもその眼力が強いものだから、私の顔は赤くなってしまう。優しさで胸がいっぱいだ。でもやっぱり、お腹は空いてるから。
「いただきまぁす」
サクサクのパン生地にバターの塩みと分厚いハム、とろけたチーズ。
「ふぁっ……ふぁにほれ、おいひぃ」
「落ち着いて食え」
お茶を淹れたリヴァイが、カップを二つ持ってテーブルに着く。彼はサンドイッチより先にお茶に手をつけた。カップのふちに手をかけて、独特な飲み方をする。
「リヴァイは?食べないの?」
「あとで食う。お前は先に食えなくなるまで食え」
「こんな美味しいもの、初めて食べた」
「そうか。よかったな」
私はあっという間に自分のお皿に乗ったサンドイッチを平らげた。リヴァイは遠まわしにリヴァイの分を「入るなら食え」と勧めてきたけれど、本当にお腹いっぱいだったので丁重に断った。
私が落ち着いて紅茶を飲み始めてから、リヴァイもサンドイッチに手をつけた。
「お前の……」
「ん?」
「今履いてる靴も、自分で作ったやつか?」
「ああ、うん。そうだよ」
座っているリヴァイにも見えるように、テーブルのすそから少し靴を出して見せる。今履いている靴はなかなかの自信作だ。兵団の払い下げのブーツをばらして、くるぶしくらいの編み上げブーツに仕立て直したもの。白の糸でレース模様を刺繍してあるから、見た目も可愛い。
「悪くない」
「本当?それって褒めてくれてるのよね?リヴァイに褒められると、なんだか嬉しい」
「今度来る時は、男ものを持って来い。持てる分だけ全部」
「男もの?」
「ここに来るのは大概男だ。買う奴はいる」
それは私の中で「しっくりきた」瞬間だった。
バラバラの左と右が真ん中で揃って、その先へと一歩、歩き始めるきっかけ。リヴァイに心を許して、心を受け取ってもらいたくて、恋をしたと自覚した。
友人なんかじゃ、全然足りない。もっとボリュームがないと、彼のことでお腹はふくれない。
「また来て……いいの?」
「決まった時間に、メシが食えるようになるまで来い」
「またサンドイッチ、作ってくれる?」
「俺の仕事も上手くいけば、だがな」
──それから私はリヴァイの言う通り、度々彼の隠れ家を訪れるようになった。
リヴァイの仕事は私の仕事よりずっと上手くいっていたので、ありがたいことに彼のサンドイッチを食べることも多々あった。決まって、夜だ。地下街はいつも夜だから。
回数を重ねるごとに、私とリヴァイの関係も深くなってゆく。
彼は「いつか地上で暮らしたい」と私に言った。地上で暮らせるようになったら、今度こそ決まった時間にメシを食わせてやる、なんて言ってくれる。
でも、きっと。
私が本物の夜空を見ることができるようになっても。夜中になったら、リヴァイの作ったサンドイッチが食べたくなるのだと思う。
地下街の空気は動かない。そこかしこにはびこる冷たい、残酷な夜の中で、たった一つの希望の光。リヴァイも、あの出会った最初の夜も、私にとってはそれら全部が美味しい思い出なのだから。
prev / next