▼ 土曜日のへっぽこ娼婦ちゃん
それは日常の中にさらりと潜り込む。
食堂で朝食を摂るリヴァイの元に、仕事の書類と大差無いテンションでエルヴィンが差し出したのが封切りだった。
「今日から使えるようになっている」
「あ……?兵舎外の宿舎だと?」
リヴァイ兵士長・調査兵団保有第3宿舎に居住を移すことを許可す(同居人・1名)
1枚目の書類には太字でそう書かれており、2枚目には宿舎を借りるにあたっての規約、そして宿舎の場所や間取りが端的に書かれていた。
「オイ、どういうことだ」
「悪戯のお詫びだ」
周囲では夢のカードを目の当たりにした若き新兵らが一斉に立ち上がり、新兵同士でアイコンタクトを取ってガッツポーズを決めていた。遂に来た、この時が!さすがエルヴィン団長、決断力が違うぜ!
羨望の眼差しを大きな背中一杯に受けるエルヴィンも満更では無い。ほら、私だってやる時はやるんだ──
しかし当の本人リヴァイは、エルヴィンの唐突な申し出の意味がよくわからなかった。そもそもエルヴィンだってハンジだって、同じ本部内の寮に住んでいる。昔もこれからも、そこを離れるという考えが先ずリヴァイには無かったのだ。
「大きな荷物があれば兵団の荷馬車を使えばいい。壁外調査の時以外は使う充てが無いのだから」
それだけ言うとエルヴィンはトレーを持ち上げて去って行く。リヴァイが呼び止めようとしたが、いい笑顔のエルヴィンは多くを語らなかった。
不思議に思いながらもリヴァイが食堂を出ると、ハンジ班の一員であるニファが走り回っていた。リヴァイの顔を見るなり、彼女はピタリと動きを止める。
「あ!兵長!ハンジさんの言っていた衣装屋さん、ちゃんと予約しておきました。来週の土曜日ですけど、いいですよね?」
「衣装屋?何の話しだ」
「やだ、兵長ったら。この後に及んで何の冗談ですか」
「オイ……」
楽しみですね、と言いながらその声は遠ざかっていく。エルヴィンも、ハンジに言われたニファも。唐突に何を言っているのだろう。
そんな事よりリヴァイにはやるべき事があった。今夜の予定を立てることだ。兵士長仕事はどうしたんですかと言われればそこは大目に見てほしい。壁外調査もしばらくは無い、しばらくは無いのだ。
やっぱり兵舎内だと落ち着かない。しかし気取った宿を取った所でまたナマエが緊張しては元も子も無い。今夜ナマエ自身の予約は入れているものの、兵舎に来るか、別の場所に来させるかは追って連絡するとなっていた。若しくは、娼館までリヴァイが迎えに行ってもいいとも考えていた。
(直接迎えに行くのが得策か?外で飯でも食ってそれから……)
ふいに中庭を通り過ぎようとした時だった。最初にナマエを呼び出した新兵達が文字通り束になり、代表の1人が大きな花束をリヴァイへと差し出した。
「兵長、よかったらこれを使って下さい!」
「なんだ……お前ら、こりゃあ」
使って下さい。と言うからには、リヴァイに贈る花束では無いのだろう。野の花を寄せ集めたわけでなく、ちゃんとした花屋で購入したらしい、美しく、繊細な花束。
「失礼ながらリヴァイ兵長におかれましては、あまり花屋に出向く機会がなかったかと……」
「馬鹿言え。俺もたまには……花くらい買う」
「そうなのですか!失礼致しました!しかし花屋の女性店員に相談して我々もこれを購入しました。女性が喜ぶという花を存分に選びました!どうぞ使って下さい!」
「あぁ……?」
そこでようやくリヴァイの頭の中で全ての事象が繋がった。
エルヴィンが兵舎外に住めと書類を渡してきたこと、ハンジ達が衣装屋を勝手に予約していたこと、新兵達がこの艶やかな花束を用意してきたこと。
(俺の確認はとらないのか……?)
ああ、しかしリヴァイの頭には無かったのだから仕方ない。ナマエのことになると殊更、選択肢は他者に委ねられている。それでもリヴァイはナマエを選ぶ。
「お前ら……ありがとうな」
花束を手にリヴァイが微笑むと、リヴァイの背後にも花が咲いた。新兵らは一度目を見開き、涙を浮かべ、口々にリヴァイの名を呼んで拳を心臓へと掲げた。我らの兵長が幸せになる!なるんだ!と一様に喜びを口にする。
「兵長!今日もう行ってください!後のことは自分達がどうにかしますので!」
感極まった1人がそう口にすると、リヴァイは「そうさせてもらう」と言って新兵らに背を向けた。手には大きな、花束。
──向かう先はハイスの宿だ。
唯一リヴァイが自分から用意したものは悲しいかな、金であった。しかし男性側が女性対してに支度金を渡すことはある。支度金と思えばいい。彼女はこれまで何一つ、リヴァイに強請ったことなど無かった。
ハイスの宿の遣り手だと名高い主人は、中年に差し掛かるくらいの女店主。遣り手なだけあって物分かりも良い。彼女は真っ赤な口紅を塗った唇を湾曲させ、リヴァイの申し出を受け入れた。「また若い衆を紹介して下さいね」と付け加えて。
「今ナマエを呼んできますよ。今夜も貴方の予約が入ってたから、昼過ぎから大騒ぎでねぇ……」
「騒ぎだ?」
「そうよ。どうやったら明日もリヴァイ兵士長様に呼んで貰えるかって。姉娼婦達捕まえて質問攻めさ。みんな迷惑がっていたから、とっとと連れて行って下さいな」
困った様に笑う女店主の顔は、心底は迷惑がっていなかった。きっとナマエはこの店でもナマエのままだったんだろう。
娼館にいる間もリヴァイのことを想っていた──その事実がどうしようもなくリヴァイの心を熱くする。ナマエにリップサービスなんて高等技術が出来るとはリヴァイだって思っていなかったが、他者から見てもナマエはリヴァイに惚れていたのだ。嬉しい事では無いか。
程なくすると店の奥からナマエの、少しトーンの高い声が響く。
え、嘘!リヴァイさんが?なんでなんで?
ちょっとナマエ、あんたちゃんとお客様には様付けしなきゃダメだって言ってんだろ!まだ娼婦なんだからね!
ごめんなさい!えーっと、リヴァイさんに会いに行ってもいいんですか?
もういいからさっさと行きな……
階段を駆け下りる音。少し緊張気味に紅潮させた頬の感じ、揺れる長い髪の毛、いつも着ているワンピース。そのどれもが、姿を見せる前にリヴァイの目に浮かんだ。
「リヴァイ……さん……時間、まだ早いのに……」
入口のカウンターに戻ってきた時、女店主の姿はなかった。リヴァイは後ろ手に持っていた花束を差し出して。
「ナマエ、結婚しよう」
歓喜のあまりに大泣きしてしまうナマエを見るのは、初めてだった。
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