▼ 水曜日のへっぽこ娼婦ちゃん
今夜の兵舎内は静かだ。まるで空気を読んだようなタイミングで新月であり、尚且つ緊急な用事も無かった。
人目を憚り、リヴァイは闇夜に紛れて厩へと向かう。更に暗い影からは兵士長を慕う兵士らが心臓を掲げながらそれを見守る。
──いってらっしゃいませ兵長!朝までどうぞごゆっくり!心行くまで楽しんできて下さい!
決して声に出してはならない。見守る兵士らもまた、姿を隠しているお月様と同じである。
今夜は初めて兵舎外の宿屋にナマエを呼び出したリヴァイ。女性を呼び出しても恥ずかしくないような宿、つまりそこそこ高級な宿を予約した。完全なる私用でこんな宿を予約したのは、リヴァイも初めてのことだ。
浮足立っているのがリヴァイ自身でもわかった。
場所が変わって、ナマエは昨日みたく緊張して来るかもしれない。その様子は容易に想像がついて、固い表情筋も自然に解けていく。
ビロードの敷かれた受付に向かうと「お連れ様は先にお見えです」と、ポーターがリヴァイを部屋まで案内する。飴色をした扉は観音開きで、ドアの側にはベルも付いていた。ポーターはそそくさとその場を離れたので、リヴァイはベルを鳴らした。
(俺があいつを訪ねるのは初めてだな)
どんな顔で、ナマエは扉を開けるのか。
ほどなくすると、ドアノブの下の鍵が横から縦に動くのが視界に入る。もちろん開けてくれるのだろうと思い、リヴァイは待っていた。しかし扉が開く気配は一行に無い。
「……」
1分も立たずして、リヴァイの方から扉を開ける。
「オイ、ナマエ……」
しん、と静まり返った室内。値段に比例して広い部屋。奥にはバルコニーと、何重にもなったレースのカーテンがかかるベッド。中央にはソファとテーブル。テーブルの上には新鮮なフルーツ。しかし肝心の彼女の姿は見当たらない。
「出迎えも無しか?」
リヴァイが語尾を強めて言えば、ベッドのカーテンの後ろからチラリ、と顔を半分だけ出したナマエがいた。
「リヴァイ様、今夜も……あの、今夜は……ありがとうございます」
「……兵舎に娼婦を呼び出すのもどうかと思っただけだ」
「お姉さま方に行先を告げたら、みんなびっくりしてました。こんな高級な所、私達でも行った事ないのに!って」
おずおずと下を向きながら、ベッドの脇からナマエが出て来る。そして一瞬ではっとした顏になって「上着!上着をお預かりしなきゃ!」と、リヴァイのジャケットに手を伸ばした。
「上着と、ズボンは、ちゃんとハンガーにかけますね!」
「そう習ったのか」
「はい」
リヴァイの正面にまわったナマエは、僅かに震える手でリヴァイの上着に手をかけた。胸元から数センチ、動かした所で手は止まる。
「あの!」
何か言いかけたその小さな唇を、リヴァイは有無言わず塞いだ。ちゅ、とリップ音だけの可愛いキス。
「1つ言っておく。俺のことはリヴァイでいい」
「ええええ!でも、でも!」
「俺がそれでいいと言っている」
ナマエは上着から手を離し、思い切り考え込んだ。どうやら呼び捨ては彼女にとってハードルが高い様子。
「……じゃあ、リヴァイさん!」
「及第点だ」
「えへ、えへへへ。リヴァイさん」
へらへらと笑うナマエはまるで春の花束のようだ、とリヴァイは思った。仄暗い裏の貌なんてナマエには見当たらなくて、その分少々頭が残念だけれど……それでもこの笑顔が見たいが為に、リヴァイは今夜もナマエを呼び出した。
やけに緊張している彼女を待っている暇は無いなと、リヴァイは自身で上着を脱ぐ。ソファに上着とクラバットだけを置き去りにして、ベッドへとナマエを誘った。
「今夜は何から披露してくれるんだろうな?」
「あの、まずはシャワーでですね……」
「却下だ。どうせ店で浴びてきているだろう」
ベッドの上にナマエを投げだせば、背中の白がナマエの頬の赤を余計に際立たせた。リヴァイはまたキスをする。今度は深く、長く。遠くで梟が鳴いている。夜も深くなることを報せている。
「明日も来るか……と言いたい所だが。明日になっても帰してやれねぇかもな」
さりげない殺し文句。いや、2人にとってはすでに常套句。きっとナマエはいつものように「ありがとうございます」だとか「嬉しいです」とか、そんな返事をする──はずだった。
「リヴァイさん……それなんですけれど」
「あ?」
「明日は無理なんです!」
「ああ?」
梟が鳴いている。ひょっとしたら急かしているのかも。早く部屋の灯りを消してください、さっさとしちゃって下さい兵長!と、まるで兵舎内の兵士らの切望を背負ったかのように。
「明日は……ご予約のお客様が入ってしまって」
華奢なナマエの肩が震える。堰を切ったように泣き始める。この後この空気どうすれば、という動揺をリヴァイも隠し切れない。しかし明日の夜を思って泣き続けるナマエを無理矢理抱く気にもなれず、リヴァイはなだめるようにナマエの背中を撫で続けたのであった。
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