AOT中編 | ナノ


▼ 1.喪失

隅々まで掃除が行き届き、薬品の匂いと皺の少ないシーツが視界を埋める病室は透明のようだ。まだ包帯の取れない、色白のナマエはそこへ溶け込んでしまいそうだとリヴァイは思った。掬い上げるのが難しい程、彼女の存在が泡沫に見える。

最初にナマエの脳内から抜け落ちたのは巨人の存在だった。全く、巨人のことがわからなくなったのだ。「明日からまた壁外調査に行く」と報告に来たリヴァイに向かって「そういえば調査兵団はどうして壁の外に行くんですか?」と、まるで道を尋ねるような調子でナマエは言った。


ナマエは調査兵団に所属する兵士だった。先の壁外調査では初列索敵班に配置され、ウォールマリア市街地にて奇行種数体との戦闘になり、彼女以外の班員は皆殉死した。その際負った怪我は酷いもので、なんとかナマエが生き延びられたのは、偶然近くにいたハンジ班の救援があってのことだ。

全身に負った怪我は全治3カ月。しかし段々と治っていく傷跡と反比例して、ナマエからは少しずつ「記憶」が無くなっていった。物を認識する力も薄れていった。

まずは巨人、次に人の名前、馬という存在、食べるという行為。色んな物が順番に、彼女の中から抜け落ちていく。

医者はなるべく刺激を与えない方がいい、とリヴァイに言った。看護婦がリハビリを兼ねて街へと連れだした際、街中でパニックを起こしたというのだ。精神的ショックなのか、怪我の際に脳内に異常をきたしたのか。それは医師も判別がつかなかったが、ナマエが兵士として復帰するのは絶望的な状況だった。

リヴァイはナマエの病室の前に来ると足音を緩める。そっと、忍び込むように息を殺す。上手い言葉を吐き出すかわりに、そうやって静かに彼女と接するよう心がけていた。

「……大きな音を立てるな」

今日はハンジとエルヴィンも同行してきていた。2人がナマエを見舞うのは初めてのことだ。ナマエは怪我が治るまでの3カ月間は兵団の管轄下にある救護施設へと入院していたが、最近になって調査兵団本部近くである入院施設のある病院へと移動させられていた。

「ああ……すまない。気付かなかった」

「まだそんなに悪いの?ナマエ」

「……見りゃあわかる」

聞こえるか聞こえないか、それくらいの音でリヴァイは扉をノックする。他の病室よりひとつだけ隔離された、ナマエの個室。

「俺だ」

「リヴァイ兵長ですか?」

中からは以前と変わらないナマエの明るい声。ハンジは少しほっとした様子でエルヴィンを見上げ、彼もまた薄く微笑んだ。しかし3人が病室へと入って。

「わぁ、お久しぶりですハンジさん!と、そちらの方は?」

そちら、と言われたのはもちろんエルヴィンのことだ。

「ナマエ……」

くしゃり、とハンジが顔を顰める。リヴァイは瞬間、思い切りハンジを睨みつけた。

「ああ……急に訪ねて来てすまない。私は調査兵団団長、エルヴィン=スミスだ」

「団長……偉い、方?ですね」

「そうなるな。リヴァイの上官だ」

「そうなんですか!」

「ここの居心地はどうだい?」

「少し寂しいけれど……リヴァイ兵長がいつも来てくれますし」

ぽかんとしたハンジを余所に、エルヴィンはまるで子供を諭すようにしてナマエと会話を続けていた。

「リヴァイ、ちょっと」

エルヴィンとナマエは穏やかに話し続けている。ハンジはリヴァイに向かって顎をしゃくると、外へ出る様に促した。

「少し外す」

「すぐに戻ってきますか?」

不安げなナマエの表情に「ああ、すぐにだ」と付け加え、リヴァイはハンジと部屋を出る。古い木目張りの廊下のつき当たりまで離れて、ハンジはリヴァイに振り返った。

「エルヴィンのことまで忘れてしまうとはね……」

「別に驚くことじゃねぇ。一昨日来たうちの班員は全員忘れていた」

リヴァイ班のペトラ、オルオ、エルド、グンタ。4人はリヴァイの恋人でもあるナマエと仲が良かった。

「他には?」

「あぁ?」

「他には何が彼女の中から消えてしまったんだい?」

「さぁ……日に日に増えていきやがる。お前らが来る前に病室に行った時は、昨日まで毎朝開けていたカーテンが閉まったままだった」

「そうか……で、リヴァイはどうする?」

何がだ、どリヴァイは視線で返事をする。

「ナマエはもう、故郷も家族も無かっただろ?このままずっとここに入院させるのか?」

「治るまでは……そうする他ねぇだろうが」

深いため息が、ひび割れた廊下の木目の上に落ちた。

もっと簡単な問題だと、誰しもが最初は思っていた。巨人の力を前にして、精神に異常をきたしてしまう人間は数多といた。しかしナマエは大きな怪我を負ったのは今回が初めての事ではないし、ハンジらと共にいくつもの修羅場もくぐり抜けていた。それだけに、皆が困惑していた。彼女の現状に。

「リヴァイ、そろそろ私達は帰るよ」

ひょっこりとナマエの病室から顔を出したエルヴィン。暗にリヴァイに対して「病室に戻れ」と言っている。

「じゃあ私とエルヴィンはこのまま本部へと戻るよ。貴方も後で一度本部の方へ来るだろう?」

「ああ。少ししたら戻る」

「じゃあ」

エルヴィンはリヴァイとすれ違う様に、ぽんと彼の肩に手を置いた。いくつもの意味を孕んだその動作。

(ナマエはもう……)


リヴァイが病室に戻ると、笑顔のナマエがベッドの上で彼を待っていた。

「リヴァイ兵長、遅いです」

少し拗ねたように眉を顰める彼女に、リヴァイは「悪かったな」と言いながら腕を伸ばした。ぎゅっと抱きしめると、彼女からも僅かな薬品のにおいがする。どこまでも清潔さを思わせるその匂いが、リヴァイは嫌いではなかった。

「そろそろ陽が暮れる……カーテンを閉めておくか?」

耳元で囁く言葉は、そこだけ切り抜くと夜の訪れを報せる恋人達の合図のようだけれど。

「カー……テン?」

「いや、いい。何でもない」

リヴァイの指先が柔らかな頬の先を撫でる。ナマエは気持ちよさそうに目を細め、リヴァイのキスを待っていた。


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