▼ 1 tea spoon*
ティーカップを温めるためにお湯を注ごうとした時だった。幻覚が見えるまで自分は疲弊しているのかと、リヴァイはその眉間の皺を余計に深くした。
「あの……貴方が私のご主人様、ですよね?」
カップの中の幻覚、もとい小さな少女の形容をしたその存在は、まさしく鈴の音が転がるような小さな声でリヴァイに喋りかける。
「声まで聞こえちまってる。俺もいよいよイカれたか……巨人を削ぎすぎた奴には小人が見えるようになるのか?」
「私達を見ると人間はみんなそんな風に言うそうです。だからご主人様も普通ですよ!」
リヴァイはティーカップのふちに手をかけ、自身の目線まで持ち上げてまじまじとそれを確認する。どこからどう見ても、ティーカップの中に収まるサイズの少女だった。紅茶で染めたような柔らかなワンピースを身に纏い、にこにことリヴァイの方を見つめている。
「ハンジに解剖させてみるか」
「え?!あの!ちょっと待って下さい!」
「そういや今週に入ってからは仮眠程度しかとってねぇ。人間の脳も案外脆いモンだ」
「ご主人様、カップの中にお湯を注いでください」
「あぁ?!」
少女はカップの中から身を乗り出し、リヴァイの前髪を引っ掴んだ。リヴァイは確かに引っ張られた痛みを感じ、これは夢でないと今一度思い直した。
「私は紅茶の妖精なんです。貴方に美味しい紅茶を飲んでもらうためにやってきたんですよ」
リヴァイは無言でティーカップを置くと、勢いよくポットのお湯をカップの中に注ぎ込んだ。熱くはないのか、少女はお湯の中で変わらずにこにことリヴァイを見上げている。
個別に包装された、ティーバックタイプの紅茶があることはリヴァイも知っていた。少女のワンピースはちょうどそのティーバックの紅茶のように、カップの中にふわりと広がっている。みるみるうちにそれは美しい紅茶の水色に変化し、リヴァイの鼻腔にまで品の良い紅茶の香りが届いた。
「紅茶……」
リヴァイがそう呟いたと同時、蒸留酒のコルクを景気良く抜いたような音が響く。リヴァイの持っていたカップがいささか軽くなったと思った瞬間だった。
「……なんだって?」
「改めまして。ご主人様が私の紅茶を飲む間は人間になれます、紅茶の妖精のナマエです!」
ナマエと名乗った紅茶の妖精とやらは、リヴァイの背丈とほぼ変わらない。つまり普通の少女の姿をしていた。
不測の事態においても、リヴァイは臨機応変に対応出来る自信があった。けれどこの目の前の状況は彼の「不測」の範疇を軽々と越え、完全に思考を停止させた。
やたらイイ笑顔で自己紹介を終えたナマエは、リヴァイが紅茶に口をつけるのを待っている風だった。今彼が持っているカップの中に入っているのは「ナマエの紅茶」。
完全に閉口してしまったリヴァイは黙ってカップを持ったまま、ソーサーを添えて自身の執務机に座り込んだ。ふぅ、と長いため息を吐いて、紅茶に口をつける。
「……いかがですか?」
待望の眼差しをリヴァイに向けるナマエ。リヴァイは「うまい」と呟き、ごくごくと紅茶を飲み干した。自覚はなかったが、ひどく喉が渇いていたようだった。
ごくり、と最後の紅茶がリヴァイの喉を通った瞬間。また景気の良いぽんとした音が室内に響く。ナマエは最初に見た通り、小さな妖精の姿に戻っていた。
「オイオイオイ……どうなってやがる……」
「紅茶の妖精は、ご主人様が自分の紅茶を飲み干すと妖精の姿に戻るんですよ!」
リヴァイは執務机の上に空になったカップを置くと、部屋の真ん中にぽつんと立っている小さなナマエをつまみ上げた。てのひらの上に乗せてみると、柄にもなく「カワイイ」という感情が僅かながらに芽生える。
「そうか……まぁ、紅茶も悪くなかった。解剖は止しておいてやろう」
「はい!これからよろしくお願いします、ご主人様」
リヴァイのてのひらの上で、ナマエは両手を広げて微笑む。薄い紅茶色のワンピースがふわりと翻った。
「ナマエ」
真っ直ぐと名前を呼ばれ、小さな妖精は針先のようなサイズの頬を染めて「はい?」とリヴァイを見上げる。
「俺の名はリヴァイだ」
ナマエは小さく「リヴァイ」と呟いてみた。それはナマエが知っている角砂糖よりも、甘い響きのように思えたのだった。
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