ティーポットフィッシュ | ナノ


▼ 3.ミルクと鮮血

ナマエがベッドに戻ったのは夜明けも近い頃で、再び布団に潜りこんでも、なかなか睡魔はやってこなかった。

しかしリヴァイに背を向けて目を閉じると、意識は少しだけ飛んでいたようで、しっかりと目を覚ましたのが昼前。

キッチンのカーテンは開いていた。窓からは風も吹き込んでいる。リヴァイはキッチンとダイニングを行ったりきたりしながら、時折テレビのニュース番組に目を止めていた。やっぱり、ちぐはぐだった。

「起きたか」

ブーツをはきながら、ナマエはリヴァイと視線を合わせないようにうなずく。

「ミルクがねぇ。当面の食いモンもないときた」

「そう……なの」

昨夜は気付かなかったが、ビーズののれんの廊下側にはウォールハンガーがあった。リヴァイはナマエのMA-1ジャケットを彼女に放り投げ、自分はティーシャツの上からチェスターコートを羽織る。

「買い出しに行く」

「手錠をつけて?」

「面白いジョークだ。確かにお前は人質だが、金もスマホも持たないお前が俺から逃げられるとは思えねぇ。起き抜けにマラソンをするのは習慣か?」

ナマエは首を横に振る。彼の言葉を意訳すると、きっと脚も速いのだろう。昨夜トイレに起きた時を思えば、逃げられる気もしなかった。捕まって、どんな目に合うかは想像もしたくない。

「お前を置いて行くのも利口じゃない。出られるか?」

ジャケットに袖を通す前に、髪をなでつけて立ち上がる。出られる、と呟いた返事は消え入りそうなほど小さな声。

リヴァイはナマエがついてくるのが、まるで当たり前という風に先を歩く。それはナマエから、逃げ出すという選択肢を根こそぎ削いでいるようだった。

螺旋の階段を下りてアパートメントを出ると、玄関も何段か階段になっている。石段を下りると、アパートメントの一階部分が小型売店キオスクになっていた。

「店の前で待ってろ。すぐ戻る」

真っ赤な木枠のドアを開くと、ドアベルが軽快な音をたてて閉まる。急に閉め出しをくらったナマエは、いささか拍子抜けした。店内を覗き込むと、リヴァイは一番奥の冷蔵庫からミルクを取り出している。すぐに戻ってくるのだろう。そう思ったが、リヴァイはレジで店員らしき男と話しはじめた。金髪の青い目の男。

(知り合い?)

そっと盗み見てみると、すぐにリヴァイの視線がナマエの方を向く。ナマエは慌てて店に背を向け、その場に座り込んだ。

(今走り出せば間に合うかな)

黒いブーツの黄色いステッチを数えながら、考える。リヴァイがここに到達するまで何秒?しかし脳内の中で組み立てていた逃走計画は、煙草の煙で遮られる。煙草じゃないかもしれない。においが妙に、甘い。

「何してんの」

三人組だった。年齢はナマエとそう違わない、ただしとても学校に行っているようには見えない類の、男三人組。髪の色が赤黄緑と信号機みたいで、耳にはピアス、腕にはタトゥー。

ナマエは膝をかかえこみ、無視を決め込んだ。助けを求めるにしては相手が悪すぎる。

「無視すんなよ。遊ぼうぜ」

「あっ」

彼等の一人が吸っていた煙草をナマエの腕に向かって吐き出した。肌の上をかすめ、ナマエは顔を上げる。顔を上げたとたん、三人に引っ張られた。

「離して!」

リヴァイに比べると不思議と怖くない。ここを離れる方が、今のナマエにとって恐怖だ。それでも男女の力の差は歴然で、二人に腕を掴まれるとナマエは身動きが取れなくなる。無常にも道路を行き交う自動車音が、騒ぐ四人の存在をかき消した。

アパートメントと隣のシャッターが下りた建物の間へと連れ込まれる。籠った音が男達の声だけを浮き彫りにして、視界がぐちゃぐちゃになった。

塞がれた口の下で、ナマエはリヴァイの名を呼んでいた。押し倒され、ショートパンツと下着を引き剥がされ、下半身がむき出しになったところで、どうしてリヴァイを呼ぶのだろうと思った。兄ではなく、彼を。

ことを早急に済ませてしまうつもりなのだろう。冷たいコンクリートの上に押し倒されたナマエは、一人に両手を押さえられ、もう一人に両脚を押さえられていた。ナマエに煙草を吐き出した一人が、ベルトを外そうとしている。

「ンーッ!」

「誰かスマホ出せよ」

男はにやにやと笑いながらナマエを見ている。一人がスマートフォンを取り出し、ビデオを起動した時だった。

意思を持った空気が真っ直ぐと軌道を描き、スマートフォンが飛んでいった。カツカツとコンクリートを打つ革靴のかかと。硝煙を踏みながら近付いてくる気配。

「誰だ?」

調子づいていた男らはリヴァイにも悪態をつこうとしたが、それを躊躇しているのがナマエにもわかった。拘束されていた両手と両脚の力がゆるむ。すぐに脚をかかえ、壁際で丸くなった。

「三秒待ってやる」

そう言うとリヴァイはコートを脱ぎ、ナマエに向かって投げかけた。まだ少し距離はあったが、コートはナマエの膝の上に落ちる。

「聞こえなかったか?三秒のうちに、今この場であったことはきれいさっぱり忘れて逃げだせば、お前らの命は見逃してやる」

「なんだてめぇ!うるせぇな、俺らの邪魔すんじゃ」

切れ味のいいナイフでサンドイッチを切った時みたいに、声が途切れた。リヴァイに飛びかかろうとした男は、顔面を壁に叩きつけられたのだ。

「お前らには弾を使うのももったいねぇ。なぁ、残り二人。一番お気に入りはなに指だ?教えてくれよ」

拳銃を腰に挟んだリヴァイが、代わりにナイフを取り出した。残りの二人は、それを見ると互いの顔を見合わせながら大通りの方へと後退る。顔を潰された男は抜けた奥歯だけを落として、二人に引きずられて行った。

三人が去ったのを確認して、リヴァイはナマエに向き直る。

「……立てるか」

そう聞かれて、ナマエは返事をしようとしたが言葉が出てこなかった。言おうとする気持ちと呼吸とが上手く噛み合わない。はくはくと喉を鳴らしていると、急に胸が苦しくなった。過呼吸を起こしかけていた。

リヴァイはかけていたコートごとナマエを抱き上げると、小走りでアパートメントへと戻る。階段の入口では、置きっぱなしになっていたキオスクで買ったものも忘れずに。

部屋に入るなり、ナマエをバスタブへおろして買い物の紙袋をひっくり返した。茶色の袋をナマエの口元にあてて、背中を撫でる。

「息を吸おうとするな。ゆっくり吐き出せ」

アパートメントに入った時から、ナマエの呼吸は完全に乱れていた。空気を奪われてしまったように喉が痙攣し続けている。返事どころか、思考も完全にパニックだった。ただ、背中を撫でるリヴァイの手だけが優しい。

リヴァイのてのひらが、時折長く背中を押す。それにあわせて息を吐き出すと、段々と落ち着きを取り戻した。

「もう少し落ち着いたら、シャワーを使え」

「……着替えが、ない」

「用意しておく。脱がされた以外には?」

ナマエが首を横に動かすと、リヴァイは立ち上がる。

「服は洗濯しておく。汚れちまったからな。ドアを閉めたら外に放り投げろ」

バスルームの中に一人きりになると、すぐに服を脱いでシャワーのコックをひねった。冷たい水に驚いたが、そのまま水を浴び続ける。

しばらくすると、シャワーの水音の間からガタガタと震えるような音が聞こえ出した。水圧を弱めて耳を澄ませてみると玄関の方からのようで、それが洗濯機の音なのだと気付く。シャワーを止め、カーテンの所に引っ掛かっていたバスタオルに身を包むと、数センチだけドアを開けてみた。リヴァイのものらしきティーシャツが、きっちり畳まれて置いてあった。

あんなことがあったばかりの後で、薄いティーシャツ姿のままリヴァイの前に出るのは気が引けた。しかしリヴァイは大丈夫だという、理由のわからない信頼があるのもナマエの中の事実だ。

リヴァイはダイニングのテーブルに着いていたが、ナマエを見るなり立ち上がる。冷蔵庫を開けて、買ってきたミルクをガラスのコップに注いだ。

ナマエはどうしていいかわからずに、リヴァイが座っていた向かいのイスに腰掛ける。座ったタイミングでミルクと、次いで古ぼけた金縁の皿に乗ったチョコチップクッキーが置かれた。

「これ好き」

ナマエが呟くと「そうか」と、リヴァイ。

クッキーをひと口かじると、食べ損ねたかけらと一緒にポロポロとナマエの目から涙がこぼれた。両脚をイスの上に持ち上げ、膝に額を埋める。指先で持ったクッキーは震えていた。

「……悪かった」

ぽつりとした謝罪は、しばらく経ってからだった。膝の上で伸ばしたままだったナマエの手は痺れている。

「悪いと思うなら!私をうちに帰して!」

急に頭に血が昇って、ナマエは顔を上げると同時にリヴァイにクッキーを投げつけた。リヴァイは簡単にキャッチしてみせ、続きをかじる。

「それは無理だ」

「うちは……うちはこんなに治安の悪い場所じゃないのよ!あんたに連れてこられなかったら、私はあんな目にあうこともなかった。ここで真水のシャワーを浴びて、震えながらクッキーをかじることもなかった!」

「治安のことなら、最近どこも似たようなモンだ。国が荒れれば人も荒れる」

「国なんて私には関係ない!」

「そういうわけにはいかねぇだろう。お前は」

リヴァイの語尾には、取り乱したナマエに重しをつけるくらい、何か意味があることのように響いた。言葉を失ったままのナマエの前に、リヴァイはわざわざ立ち上がって、ミルクのグラスを置き直す。

「落ち着け。また過呼吸を起こされたら困る」

「……私がどうなったって、あなたには関係ない」

「別に俺はナマエが憎いってわけじゃない。勘違いするな」

グラスを置いた手は、そのままナマエの頭の上に乗った。二回、リズムをつけて跳ねて、それから。

「怖かったな」

そう言ってリヴァイは、一人掛け用のソファへと座り込んだ。

ナマエは一瞬何が起こったか理解できず、リヴァイが触れた頭を自分でも触ってみた。髪はまだ濡れている。彼のてのひらも、濡れてしまったかもしれない。

(リヴァイの方がずっと怖い)

そう思うこともまた、事実なのに。
何もかもが噛み合わない、ちぐはぐな部屋。家具も、状況も、彼の態度も。

部屋に不釣り合いなテーブルの上で、ナマエはしばらくクッキーをかじる。チョコレートの甘さがほっぺたの裏をくすぐった。ミルクを一気に飲み干してグラスを置くと、見計らったかのようにリヴァイが再び立ち上がる。そしてそっと、グラスの隣にバンドエイドを置いた。

「なに……?」

リヴァイは自身の唇の端を指さしてみる。指摘され、ナマエは自分の唇の端を触った。さっきの男等に押し倒された時に、どこかにぶつけて切れていた。

「あ……痛い……」

怪我をしているのに気付かなかったのだ。シャワーも冷たかったので、きっと出血も少なかった。

親指で傷を押さえながらしどろもどろしていると、見かねたリヴァイがバンドエイドの封を切った。

「顔上げろ」

「痛っ……傷に触らないで」

ぺたん、と塞がれる赤く剥がれた皮膚。ナマエが目を開けると、ナマエの方を見下ろしているリヴァイと目が合った。

(何がちぐはぐなの)

目に見えているものの大きさは、正しいだろうか。ナマエが見てきたものの全ては、正解なのだろうか。

なぜか全ての答えをリヴァイが知っているような気がして、ナマエにとってのリヴァイの「恐怖」は、力よりもそれにあった。


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