▼ 2.Dear Maria.
夢を見ていることに、ナマエはすぐに気が付いた。それはエルミハ区に行く道中、リヴァイにもたれて見ていた夢の内容と同じだったからだ。
遠くにケニーの姿がある。
前の夢の時と同じく、ナマエはその背中を追いかけようとしていた。
(ケニー、また行ってしまうの?)
今度はもう、絶対に手の届かない場所だ。ケニーは帰って来ない。もう二度と、会えない。
「ケニー!貴方は私の何だったの?!」
ナマエの体は鉛のように重たかった。それでも無理に口を開き、どうにか叫んだのがそれだった。ずっと先を行くケニーはかぶっていた帽子に手を当て、ナマエの方に振り返った。ケニーの口元は、少し微笑んでいるように見える。そんな彼の背後から、少年が走ってやってきた。
「その子……」
少年はケニーのコートを掴み、背の高い彼を見上げた。ケニーとナマエを交互に見やり、それからナマエの方に向かって歩き始めた。ゆっくりと、一歩踏み出すごとに少年の背丈が大きくなっていく。段々と大きくなっていく少年はナマエの目の前へと着いた時、今のリヴァイの姿をしていた。
「リヴァイ」
ナマエがそう呟くと、リヴァイはナマエの手を握ってケニーの方へと向き直った。2人はただ手を繋いだまま、小さくなっていくケニーの背中を見送っていた。
***
は、と目を開くと同時にナマエは起き上がった。窓の外はまだ薄暗い。遠くで梟の鳴き声がした。空気はしんと静かで、ナマエは荒くなった呼吸を一度、深く吸い込んで吐き出した。
大部屋の女子寮には随分人が減ってしまった。どのベッドもマットレスがあげられて、二段ベッドの木目がむき出しになっている。白いシーツに包まれたサシャとミカサが眠っているのを確かめて、ナマエはこっそりと団服に着替えた。
(……変な夢見た)
ケニーを弔ったのはもう数日前。
結局リヴァイがケニーから聞き出せたのは、彼がリヴァイの母、クシェルの兄にあたる人であったこと。それから、巨人化の薬を託された。
ナマエのことまでは聞けなかったと、リヴァイはため息を吐き出すみたいに呟いた。時間が足りなかった、と。それ以上ナマエも、ケニーのことは口に出さなかった。
(気持ち、切り替えたつもりだったんだけどな)
調査兵団本部へ帰還して早々の兵士長補佐官への就任。それはナマエを前向きにするには十二分な出来事だ。なのに今朝は、あんな夢を見てしまった。
落ち込みそうな思考を振りかぶるかのように、ナマエは厨房に向かった。調理を済ませ、リヴァイとハンジに朝食を届けなければいけない。それが終わったらナマエだって仕事が山積みだ。落ち込んでいる暇など無い。
ナマエは手早く……といっても、それなりに時間はかけて仕上げたパンとスープ、それから紅茶を乗せて持ち上げた。
(先にハンジさんのお部屋に行こう)
両手が塞がっているので、ハンジの部屋の前で「ハンジさんいますか?」と声を掛けてみたが、中から返事は無い。まだ朝の時間としては早い方だ。眠っているか、執務に没頭しているかどちらかである。どうしようかとナマエが迷っていると、隣のリヴァイの部屋の扉が開いた。
「ごめんよ。ちょうどリヴァイの部屋に来てたんだ」
「そうだったんですね。お2人の朝食持ってきました。私も入って大丈夫ですか?」
「ああ。ちょうど君らの話しをしていた所だったから」
「私達?」
そろそろと両手にトレーを持ったまま、ナマエはリヴァイの部屋へと入る。リヴァイはもう執務机に座っていたので、ナマエは「おはようございます」と言いながら、リヴァイの分のトレーは執務机の端の方へと置いた。
「ハンジさんのはこちらに置いてもいいですか?」
ハンジの分はソファの前のローテーブルへ。ナマエは立ちあがると、ちょうどリヴァイとハンジの間に立ったままでいた。
「それ、昨晩受け取ったんだ」
リヴァイが目を通している書類をスプーンで指しながらハンジは言う。昨夜も食事を摂っていなかったハンジはさすがに空腹なのか、さっそくパンにかぶりついていた。
「ナマエ、お前も目を通せ」
「はい」
机越しに受け取ったそれは書類というより手紙のようだった。リヴァイ宛てになっている。
ナマエという少女の件について
5年ほど前にここらの娼館で飼われていた娘だ。切り裂きケニーとかいうやつが、少女のことを嗅ぎまわっていたと聞く。
少女はケニーの遠縁の親戚にあたるらしく、えらく気にしている風だった。俺の所の使いっぱしりが駄賃で雇われて、ナマエが地上に買われたらケニーに報告するようになっていたらしい。今わかるのはそれだけだ。
「これは?」
「地下街の伝手からだ。わかったのはそれだけだったが」
「結局2人は遠い親戚ってことでいいんじゃないか?よかったよ、本当の兄妹じゃなくて」
心底ほっとしたように言うハンジに、ナマエは愛想笑いを零した。確かに、実の兄妹じゃなくてほっとしている部分はある。
「……もう少し、調べさせるか?」
ナマエの顔色を伺うようにリヴァイがナマエを見上げていた。ナマエの中で消化しきれない何かがあることを、リヴァイは誰よりもわかっていた。
「いいえ。これから兵団も忙しくなりますし。私も兵長補佐として……務めに集中したいです」
「そうか」
真っ直ぐとリヴァイの目を見て言うナマエに、リヴァイは俯いてスプーンを手に取った。空白を埋める代わりに、スープへと口をつける。
「ナマエはさ、お父さんみたいに思ってたの?その、ケニー=アッカーマンのこと」
「そんな……んじゃないって、ずっと思ってたんですけど」
ナマエは困った様に微笑んでいた。その表情を見てハンジも、それ以上聞くことをやめた。きっと簡単には説明できない気持ちが、いくつも交差しているのが見てとれたからだ。
室内に気まずい静寂が訪れた。
(……私は一旦部屋を出た方がいいかな)
そんな空気だった。しかし。
「オイ、今日の食事当番はどいつだ」
「え?何かまずかったですか?」
普段食事に関して何もリアクションを起こさないリヴァイの、その違和感のある一言にナマエは慌ててリヴァイの方へ振り返った。彼はスプーンを握ったまま、スープの入った皿を見つめている。
「いや、そうじゃねえ……ガキの頃に食ったやつと同じ味だ」
「ちょっとリヴァイ、らしくなさすぎて笑えるよそれ」
ハンジが冷やかすように笑い声を立てる。反して、リヴァイとナマエは同時に口を噤んでいた。微動だにしないナマエを不思議に思い、ハンジはナマエの表情を伺う。ナマエはその大きな瞳を限界まで見開き、唇をわななかせていた。
リヴァイも驚いた風に、ナマエを見つめていた。しかしリヴァイが「どうした」と呟いた瞬間、ナマエはゆっくりと両手を持ち上げて、鼻と口を覆ったまま大声で泣き始めた。びっくりするほど、火が付いたような泣きっぷりだった。
「ちょっと、ナマエ?」
突然泣き出したナマエに、ハンジは狼狽えて立ちあがる。
泣き止む素振りは一切見当たらなかった。感情が堰を切ったかのように、ナマエは声を上げて泣き続ける。リヴァイはまた、スープに目を落とした。
「……ケニーか?」
リヴァイの一言に、ナマエは首を縦に振った。
「どういうこと?ねぇ、ちょっと私は話しが見えないんだけれど……」
状況が理解できないハンジは2人を見比べる。リヴァイはそれに気付かないふりをしたまま、真っ直ぐとナマエを睨んだ。
「そんなわけあるか。じゃあ何か?お前は、ケニーが俺にこのスープを飲ませるために、お前をここまで送り込んだってのか?」
ナマエはしゃくりあげ、何度か目元を擦った後に「そうです」と呟いた。
ナマエが今朝作ったスープは、豆のスープだった。豆しかなくてそれにしたのだが、ナマエの中にある豆のスープのレシピは、ケニーから嫌というほど教わったものしかない。だから今、わかったのだ。このスープを作る時、ケニーが殊更口煩かった理由が。
それを紐解けば、見えてくるものがある。
「後は……2人で話した方がよさそうだね」
ハンジはトレーを持ち上げると、リヴァイに向かって手を挙げてから部屋を出て行った。扉が閉まった音が響いたと同時に、リヴァイはナマエの名を呼んだ。
両手で顔を覆ったままのナマエ。リヴァイは近付いて来たナマエの手を解き、自身の方へと抱き寄せた。
「……今まで、わからなかっ……たの」
「ああ」
「ケニーが、どうして私を……でも」
「ナマエ」
「愛されていたから!リヴァイが……ケニーにも、お母さんにも。愛されていたからっ……」
きっとスープだけでは無い。生活の中で、ケニーがナマエに教えてきたのはリヴァイに繋がる全てだ。
「その推測が正しければ……ナマエ、お前は本当に俺の為にしか生きられないことになるが」
嗚咽をあげながら、ナマエはリヴァイの腕の中で何度も首を縦に振った。
「そんな……クソみたいな筋書きの人生でお前は満足か?」
ナマエはリヴァイから思い切り体を離し、両手でリヴァイの肩を掴んだ。まだ涙は止まらない。感情もまとまらない。けれど言いたい事はいつだって変わりない。
「貴方が愛された末に私がいるのなら……こんなに幸せなことってない。愛してます、リヴァイ。私は最初から、貴方のものだった」
リヴァイの瞳が少しだけ震えたように見えた。その逞しいてのひらが、ナマエの頬を荒く包む。涙でくしゃくしゃになった髪をかきわけ、リヴァイはナマエに口付けた。何度も、繰り返し。
ケニーの、最初の思惑からは少し外れた形だったかもしれない。けれど彼のリヴァイへと遺そうとしたものは確かに今、リヴァイの腕の中に在った。
prev / next