▼ 4.瓶の底の希望
「俺の妹みたいな女がいてだな、そいつがここで世話になったらしい。客は取らされてないらしいが、まぁ、どういう扱いを受けたかは想像がつく。一度礼に来なけりゃと思ってたんだが、今回良い機会だから来てやったわけだ。おい、ハーゼ家に売ったんだろ、俺のナマエを」
かろうじて暴力には訴えてはいないが、襟ぐりを掴まれ、持ち上げられて、このリヴァイに睨まれる娼館の主人は控えめに言っても気の毒だった。横幅はリヴァイの優に倍くらいはありそうな大男なのに、全身に鳥肌がたって震えている。
「……ねぇリヴァイ。とりあえずツッコんどいた方がいいかと思って敢えて聞くけど、それ惚気かい?」
「るせぇ!」
ハンジの方に振り向くさま、娼館の主人は高低差の関係でひどく足を床に打ち付けられた。
「ごめんごめん」
「おい、覚えてねぇのか。5年前だ。思いだせるまで俺と頑張るか?あぁ?」
荒く投げられて、娼館の主人は「覚えてる!」と奥歯のかみ合わない声でそう叫んだ。
「さっさと答えろグズ野郎。俺の要求を呑まねぇと、てめぇ明日はメシも食えない状態になるぞ」
決して脅し文句では無いその言葉に、主人ははいずるようにしながら娼館の中へと入っていく。目的の、帳簿を取りに行くためだ。その惨めな後姿を見送りながら、ハンジは半ばほっとしたように両手を腰に当てた。
「……案外あっさりだったね」
「当然だ。こんなとこでこれ以上、時間が使えるか」
「いや、リヴァイの……うん、いいや」
口ごもるハンジに、リヴァイは片方の眉をぴくりと動かして、それ以上はもう口を開かなかった。
***
どれくらい時間が経ったのかわからない。冷たい石造りの牢屋の中にいて、久しぶりという感情抱く自分が情けなかった。
(……5年前までは、これが当たり前だったもんなぁ)
娼館にいた頃、ナマエはこのハーゼ家の地下牢と大差ない場所で暮らしていた。
おおよそ人間らしい生活ではなかった。時たま娼館の主人が客を連れてくる時は、入浴が許される。そして客はナマエを見て値を付けるのだ。東洋人は希少だとかで、娼館の主人はなかなか首を縦には振らなかった。
一体いつからそこにいるのか。いくら思いだそうとしても、その地下牢の記憶以前がナマエには無かった。下卑た男の表情と暗く冷たい場所。世界は、それだけだった。
(知らなきゃよかった)
希望を持つこと、夢を持つこと、愛すること。全て訓練兵になって、同期やリヴァイに出会って覚えた感情だ。
(知らなければ、今こんなに辛くなかったのに)
大勢の仲間と過ごしたささやかな日常。そして彼の腕の中。何度もあるわけじゃなかったけれど、リヴァイのにおいや温度は、ナマエを優しく包んでくれた。
ここへやってきて、何度心の中で彼の名前を思っただろう。けれどもう、さすがに助けに来てはくれない。
ナマエだって多少世の理は見えている。貴族出身の憲兵団の男が、その権力を振りかざしてナマエを連れて来たのだ。リヴァイやエルヴィンでも言えばどうにかなるような状況ではない。
ぶるりと震える体を抱きしめた。着替えなんて待ってもやって来ない。雪山訓練の時より、寒い気がした。
***
地下街から地上へと続く階段を登りきった所で、エルヴィンは馬に乗ったままリヴァイとハンジを待っていた。
「どうだった」
「帳簿は手に入った。エルヴィン、そっちは」
「こちらもあったよ。回してくれたのは先日ビアホールでパーティを主催した彼だ。またお前と酒が飲みたいと言っていた。今度はもっと愛想よくしておくんだな」
少し皮肉めいたエルヴィンの口調に、リヴァイはふんと鼻を鳴らした。後ろからリヴァイに追いついたハンジも、賛同するようにリヴァイの肩を叩く。
「じゃあ材料は揃ったわけだね?どうする、このまま行くかい?アポなんていらないだろ」
「そうだな。このまま……ミケも呼んでおけばよかったか」
思案するようにエルヴィンが視線を泳がせると、リヴァイは怪訝そうに眉を顰める。
「あぁ?3人で十分だろ。交渉はエルヴィン、てめぇの仕事だしな」
「そうじゃないよリヴァイ。貴方が暴れたら私とエルヴィンじゃ心配ってことだよ」
じとりとした視線をハンジに送るリヴァイ。
「君の良心を信じているよ、リヴァイ。じゃあ行くとしよう」
「そりゃあっちの出方次第だ」
3頭の馬が足並みを揃えて走り始める。貴族の屋敷だ。ここからは近い。
エルヴィンの揃えた「材料」はハーゼ家にまつわる金の流れを記した帳簿だった。
憲兵団に寄付が厚いとされているハーゼ家だったが、それは虚偽であった。その証拠となる帳簿を、例のビアホールパーティの貴族が持っていたのだ。また寄付金とたばかって、ハーゼ家は4人の女を同じ娼館から買っていた。その女達の消息は不明。
とりあえずはこの証拠を提示し、ナマエの引き渡しをエルヴィンは考えていた。追い詰める事は、後でも出来る。
「……そういえばリヴァイ。出納係に給料の前借を申し入れたらしいな。何に使う気だ?」
「ちっ。相変わらず地獄耳な野郎だ」
「ナマエがこちらに帰ってきた時、あまり気に病まないようにしてやりなさい」
まるで父親の様な口調に、ハンジは隣から「みんなナマエには優しいねぇ」と呟いた。
ハーゼ家の館は、目の前に迫っていた。
***
ナマエが憲兵に連れていかれた次の日の夜。女子寮の中に教官の1人がやって来て、説明も無くナマエの寝ていた寝台の布団を剥ぎ取りにかかった。
「……何をしているんですか」
まとめられた布団の端を握りしめ、ミカサは恨めしそうに教官を睨みつける。
「ナマエ=アッカーマンは本日付で正式に除名となった。ここはもう必要無い」
そんな、とミカサは声にならない言葉を口の中で転がした。どこかでナマエがまたひょっこりと帰ってくることを、期待していたのだ。
「ちょっと待ってくれよ。何の説明も無しかよ」
あまりにも一方的な宣言に、さすがのユミルも口を挟んだ。
「せめて事情を聞かせてもらえませんか。私達、ここまで一緒に訓練してきたんです」
クリスタも口を開くと、続けざまにミーナやハンナも「お願いします」と声を揃えた。騒ぎを聞きつけて、扉の外にはライナーやエレン達も集まってきていた。
「なんだ、お前たち」
思わぬ104期生の対応に、荷物を回収しに来ていた教官は狼狽えた。しかし彼とて好きでしているのでは無い。ナマエは除名になった。それは揺るぎない事実。
「……悪いが、どうにもならないよ。彼女はハーゼ家に使える事になったんだ。ここはもう、片付けなくては」
淡々と言う教官に、寮の外からはジャンの「クソッタレ」と叫ぶ声が小さく聞こえた。ジャンの気配が遠ざかっていくのを見て、教官はそれには聞こえないふりを決め込んだ。
重苦しい空気が女子寮の中に流れる。クリスタが、声も上げずに涙を流していた。
「クリスタ……」
ユミルがそう呟き、彼女の周りに他の女子も集まる。ミカサだけが1人、昨夜まとめたナマエの荷物を取りだした。中にはナマエの数少ない私物が詰まっている。
「せめてこの荷物を、彼女に届ける事はできませんか。この中に入っているものは、ナマエの全てです」
数少ない文房具、教科書。それにリヴァイから貰ったキャンディやワンピースに手紙の数々。どれも彼女の大切な宝物で、隣で見ていたミカサは全部を知っていた。
「……約束はできないが、キース教官にも相談してみよう。努力はするよ」
「お願いします」
教官の手に握られたナマエのカバンが揺れる。ミカサが前にあのカバンが揺れる様を見たのは、調査兵団へ最後の手伝いに行った帰りだったなと思い出した。
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