チルチルミチル | ナノ


▼ 3.あの日、彼女は

馬車は揺れ、カーテンの隙間からは綺麗に整備された街並みが見える。それは5年前、ナマエが見るはずだった風景だ。

「……色々手間取ってね」

ナマエの目の前に座っているのは、前年度憲兵団に就いたヴィリー=フォン=ハーゼだ。縛られた両手をぎゅっと握りしめ、ナマエは唇を噛みしめる。

訓練兵団を出てくる時、エレンが、ミカサが、アルミンが。他のみんなも。ナマエが連れていかれることに異を唱えてくれた。けれどナマエの罪状は書面できっちりとしたためられており、教官達もただ見送るしか術はなかった。

ミカサのナマエの名を呼ぶ悲痛な声が、まだ耳の奥の方で聞こえる気がした。しかし目の前には、足を組んだヴィリーの姿。

「もうわかるよね?俺が訓練兵の時、アンタに色々聞いてた理由」

「……私を買ったのは貴方だったの?」

「まさか。俺そんな年寄りに見える?買ったのは兄貴さ。あんな地下街の娼館でも、結構高値だったらしくてね」

表向き娼館から買ったということは伏せられていた。罪状には、慈善活動で引きとろうとした子供が貴族を侮辱して逃げ出した、となっていたのだ。

本来ならば罪人として処罰されるところを、ハーゼ家の現当主でヴィリーの兄、ヴォルフはナマエがハーゼ家に使えるならば侮辱されたことは不問にしようという申し出だった。そしてこの申し出に、ナマエの拒否権などは無いのだ。

馬車は停まり、ナマエは手首を縛られたままヴィリーに引っ立てられる。そして着いた先は、ハーゼ家の地下にある牢屋だった。

「そうだ。とりあえずそれ、脱げよ」

牢の中に入り、ヴィリーは思いついたかのようにナマエを一瞥する。

「……え?」

「それはもう着る事がないだろう。俺が返しておいてやるから、脱げよ」

そうは言っても着替えは無い。
侮辱しているのは彼の方だと、ナマエはじっとヴィリーを睨みつける。しかしすぐさま、体が跳ね飛ばされる勢いで頬をぶたれた。

「お前はそもそも、兵士でもなんでもない。地下街の売られた小娘なんだよ。訓練してついた体力が落ちるまでは、ここで反省するんだな」

手は縛られたままだ。
ナマエに抵抗する術なく、着ていた物は剥ぎ取られた。薄い下着姿にされ、もうプライドも何も無い。そして思考は停止する。「帰ってきてしまった」と。

俯いたまま冷たい床に座り込むナマエを見て、ヴィリーは鼻を鳴らして笑った。

***

「エルヴィン団長」

珍しくノックもせずに入室してきた彼を、エルヴィンは咎めなかった。

「モブリット、すまなかったな」

「いいえ。私も彼女のことが心配ですし」

「ああ。私やリヴァイだと目立つからな……助かったよ」

暗に彼ならば目立たないということだが、モブリットはさして気にしてはいなかった。ポケットに突っ込んでいたメモを取りだし、いつものように状況を口上する。

「偵察に行った訓練兵団の様子ですが……やはり同期生達も、今朝方知ったという風でした。混乱してましたね。ナマエの人柄が伺えましたよ」

そうか、とエルヴィンは軽いため息をひとつ。

ハーゼ家という貴族がナマエに一枚噛んでいるかもしれない、とリヴァイから聞いたのは約1年前。リヴァイが初めてナマエに出会ったのも、そのハーゼ家のヴィリーという男の差し金で、駐屯兵団の新兵に絡まれていた時。

どうしてそんな貴族家がナマエを?その答えは早いうちに見つかっていた。

そもそも地下街から幼い少女を買うのには、性的嗜好を満たす以外理由は無いだろう。しかしもう5年も歳月は経っている。ナマエは少女というより女性だ。

「ヴィリー=フォン=ハーゼは、どうしてそこまでナマエに付きまとったんでしょうか」

「ハーゼ家は3年前に当主が変わった。ヴィリーの兄のヴォルフがそうだ」

「は……」

「それからどうも、家は傾いているらしい。しかしヴォルフの妻はこの5年で、4人変わった」

淡々と言うエルヴィン。対してモブリットは、ひどく顔を歪めた。

「どういう……意味でしょうか」

「ナマエを5人目の妻にする気だろう。そしてそのヴォルフの妻という概念が、我々とは大きく違っているのが問題だ」

4人のうら若き少女たちがどうなったかーーー
想像もしたくないが、きっとそれは最悪の範疇の中にある。そういう嗜好の持ち主だ。そして家が傾き始め、女性を買うには困窮した状態でヴォルフはナマエのことを知ったのだ。ヴィリーを通じて容姿については報告を受けているだろう。成長しても、彼女は変わらず美しい。

「ナマエはどうなるんですか?!」

「無傷で取り戻したい所だが。まずは奴らを、交渉のテーブルに着かせる材料が必要だ」

***

昨夜彼女を抱いていれば、せめて今日いなくなることは避けられたのかもしれないーーー地下街に続く階段を降りながら、リヴァイはそんな自身の思考に吐き気がした。

ブーツの踵が、固い石畳を鳴らしている。
ナマエも一度はこの石畳を見たのだろうか。あの曇りの無い瞳で、地下街を出てきたのだろうか。

『リヴァイ兵長、私最近思うんです。地下街にいてよかったなって。だって普通の家庭で生まれて、普通に育っていたら、訓練兵にならなかったかもしれないじゃないですか。そうしたらリヴァイ兵長に会えませんでした』

『あぁ?阿呆かてめぇは。もし俺に会ってなかったら、俺じゃねぇ普通の男に会って同じこと言ってただろうが』

『何言ってるんですか?リヴァイ兵長は、この世に1人しかいないじゃないですか』

ナマエのわけのわからない理論を聞かされたのは、先月の事だったか。
「告白」をされたのは昨夜が初めての事だったが、ナマエがリヴァイに対して好意を孕む言葉を口にすることはよくあった。そしてリヴァイは、自然とそれを受け入れていた。

彼女と出会って、彼女はリヴァイの生活の一部になっていた。

会えない日が続けば手紙を待つし、1人街を歩けばナマエの好きそうな物を目で追っていた。会える日は、前の日から楽しみという感情がくすぶった。

ひとつひとつは大きくない出来事でも、その積み重ねは大きかった。そうやって、この呼称のし難い関係を育ててきた。


(……壊されて、たまるか)


まずはハーゼ家と話しをつける段取りを組まなければ。それでこそ地下街にいたときのように振る舞えれば話しは早いのだが、如何せん相手は貴族。そして憲兵にもパイプが太い。全てを壊したところで、リヴァイにもナマエにも逃げる場所は無い。壁の中は、狭いのだから。


「リヴァイ、ねぇちょっと待ってよ!」

「クソ、遅いんだよ」

ほぼ走るような速度のリヴァイ。後ろから着いてきていたハンジは、息を切らせて彼の隣に並び立った。

「地下街の娼館って一口に言ってもさ、沢山あるんじゃないのか?」

「ナマエは東洋人の血が入っている。お前も知ってるだろうが、近ごろじゃ珍しい人種だ。そんな人間を置いておける娼館なんざ、この地下じゃしれてる」

「目星はついてるのかい?さすが元ゴロツキだね」

「……ああ、とっくについてる。ちょうどいい機会だ」

はっ、と鼻で笑いながらリヴァイの口角が上がる。

「ねぇ、貴方が今何を考えてるかなんとなくはわかるんだけど……事件沙汰になるようなことはやめておこうね。ただでさえ色々グレーゾーンなんだから」

「あぁ?てめぇ、クソメガネ。誰に向かって言ってんだ」

肩をすくめるハンジ。
確かにこのリヴァイを止められる人間は、調査兵団の中にいないだろうなと、今回の作戦の班分けをしたエルヴィンの顔を思い出したのだった。

***

ーーー夜

夕食を終え、交代で入浴をする時間の合間。ミカサはナマエの荷物をまとめ、食堂のテラスで膝をかかえて座り込んでいた。

「ミカサ、大丈夫?」

今日はもうずっと元気の無いミカサ。エレンとアルミンも顔を歪めながら、彼女の左右に座り込んだ。

「……大丈夫じゃないのはナマエ」

「ああ、そうだな……俺も、どうしていいかわからねぇ」

「どうして急に憲兵が来たんだろう。きっと、前にナマエが貴族から逃げ出した件についてだとは思うんだけれど」

ミカサの手の中には、ナマエの宝物が握られていた。もう中身は残り1粒になってしまった瓶詰のキャンディ。

「ナマエは悪い事なんかしていない。何も、絶対に」

「そもそもナマエは買われたんだろ?人身売買している貴族の方が問題じゃねぇか!」

「わかってるけど……今はどうにもできないよ。僕たちも今は卒業前の大事な時期だ。ここで問題を起こせば、各兵団に配属なんて永遠に不可能になってしまう」

エレンとミカサをなだめる様に言うアルミン。

「何か考えは無いのアルミン」

「なんか考えてくれよ」

矢継早に声を揃える2人に、アルミンもため息を吐いた。

「今は大人しくしておくしかない。きっと僕らも一人前の兵士になれば、あのハーゼ家にコンタトクトを取ることくらいできるだろうから……今は、卒業するしかないよ。ナマエのためにもね」

「一緒に、卒業したかった」

膝に顔を埋めるミカサ。いつにないか細い声に、エレンは珍しくミカサの頭の上に優しく手を置いたのだった。

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