▼ 1.変化の時
体が重力を感じている。
目指した方にアンカーを放つと、手足の先のようにそれは真っ直ぐと伸びていく。周囲からは同じような音がひっきりなしに響き、景色は加速していった。
同じ点のような残像が過ぎる中、臙脂色が視界に入る。ミカサだ。彼女はナマエを軽々と通り越し、目標へと刃を振り下ろした。
「クソッ、とられた」
小さく舌打ちをしたナマエに「最近お前口悪ィぞ」とジャンの揶揄する声。
ささやかな日常を繰り返してーーー
ナマエは訓練兵団で3度目の春を迎えようとしていた。卒業試験まであと2週間。もともと僅差の成績だったのだが、最近はミカサに押されっぱなしのナマエ。
「一旦集合!」
訓練をしていた林の入口から、教官の声が響く。
木々の枝に止まっていた104期生達は、一斉に同じ方向を向いて飛びだした。
「さっきのはナマエらしくなかった。何か悩みでもあるの」
「あはは。ちょっと、焦ってるかもしれない。首席で卒業しろって言われていたから」
「焦ることは、ない」
「……ミカサに言われてもね」
少し皮肉めいた口調に、ミカサは口角を上げる。
「でも、それだけ?」
ナマエの表情を読み取るのは、誰よりも得意なミカサ。焦っている理由が成績だけではないことくらい、お見通しなのだ。
アンカーを巻きとる音が絶え間なく響く。視線の先には、同期生達が広場へと集まりつつあった。
「地に足がついてないっていうのかな」
「今は立体起動の訓練中」
「いや、例えの話しだよ」
「わかってる」
「ミカサの冗談はわかりにくいよ」
ナマエがくすくすと笑い声を立てると「でも皆、そうなんじゃない?」と反対側からアルミン。
「聞いてたの?」
「ごめん、聞こえちゃったんだ。もうすぐ卒業試験だし、ナマエがそんな風に思うのは無理もないと思う」
「ナマエは調査兵団志望だろ?不安になるのも仕方ねぇよ」
アルミンの隣からエレンも顔を出す。
今までは訓練兵だった。
命を落とした同期もいるが、壁外へ出るとそのリスクは比では無い。最初からわかっていたことだがいざ目の前に来ると、相応の不安は誰しもが抱く。
「そう……かな」
「ナマエは憲兵に行けばいいのに」
最近は口癖のように言うミカサ。ナマエが困ったように笑うと、4人は広場へと降り立った。
「おい、ナマエ=アッカーマンはいるか?」
全員が集合している中で、教官の声が響く。「私です」とナマエが名乗ると、その教官は近付いてきて1枚の封書をナマエに手渡した。
「調査兵団のエルヴィン団長がお呼びだそうだ。すぐ本部に向かえ。消灯時間を過ぎれば、本部の宿舎にて宿泊許可が下りている。明日一番に帰還するように」
「……は」
どうしたんだろう、とナマエは思った。卒業試験前なので入団まではもう雑用は頼まないと、リヴァイやエルヴィンから言われていたのだ。
「ナマエ、また抜け駆けか?」
教官が去った後、エレンが挑発的な笑顔でナマエの肘を小突く。
「違うよ。でも、ちょっと行ってくるね」
「早く、帰ってきて」
「気を付けてね」
ミカサとアルミンは少し心配そうにナマエを見る。ナマエは「じゃあ行ってきます」と言って、準備をするために女子寮の方へと走り出した。
***
淡い橙色に染まったビアホール。
夜の帳が降りるにはまだ少し早い時間、リヴァイはアルコールを傾けながら、つまらなさそうに視線を泳がせた。
「ちょっとリヴァイー、もう少し愛想よくしときなよ」
「あぁ?そもそもこりゃ俺の仕事じゃねぇだろうが。エルヴィンの野郎にでも任せときゃいい」
「まぁ……でも、そうだね。私も早く帰りたいくらいだ。タダ酒は飲めるけど」
常に資金不足の調査兵団だが、彼等に出資をする貴族の人間がいる。その思惑は様々だが、中にはエルヴィンの人柄に入れ込んで、とかリヴァイの活躍を応援して、とか詰まる所、ファンのような変わり者もいるのだ。
今夜はそんな変わり者が主催したビアホールでのパーティ。
興味本位に壁外のことを根ほり葉ほり聞かれる会、だ。同伴のハンジは巨人の話しになると、相手側から引いて行くようだが。
始まってまだ1時間ほど。リヴァイは場の雰囲気にすっかり疲弊し、柱の影に一時避難している状態だ。
「そういや今夜、ナマエ来るみたいだね」
「あぁ?」
「出る前に、エルヴィンが訓練兵団に伝令出してたよ。ナマエだろ」
リヴァイは眉を顰める。
彼女が最後に調査兵団を訪れたのは先々週。その最終日、エルヴィンの部屋で「次は入団してからだな」と話したのは記憶に新しい。リヴァイには与り知らぬことだが、卒業試験とは厳しいものらしい。
「なんのつもりだ」
「私が知るわけないよ。でもわざわざリヴァイがいない時を選んだんだろうさ。何か2人きりでしたい話しとか……」
「話しだ?今更、なんの」
「だから私はわからないよ」
襟元を掴まれ、ハンジはなだめる様にリヴァイの肩に手を置いた。
「でもタイミングからして、入団に関することじゃないか?」
リヴァイの眉間の皺が深くなる。
「さっさと帰るぞ」
小さく呟いたつもりだったが、どうやら貴族とは地獄耳のようで。
「リヴァイ兵長!貴方はよくお酒を召し上がるとかで、ほら、ご覧ください!あの樽の山、あれを飲み干すまで今夜は帰しませんよ!」
小太りの初老の男性が、嬉しそうにリヴァイの手を引く。彼がハンジに振り返ると、ハンジも肩をすくめて愛想笑いをした。
***
ナマエが急にエルヴィンに呼ばれたのは、ハンジの予測した通り入団に関することだった。
1年半前ーーーひょんなことからリヴァイを手伝うようになり、それからナマエは度々調査兵団に訪れていた。エルヴィンに雑務を頼まれたこともあれば、個人的に訓練の見学に来たこともあったし、ハンジを訪ねて遊びに来たことも。
エルヴィンが今一度ナマエに聞きたかったのは「本当に自分の意思で入団する気があるのかどうか」だ。日々の慣れ合いの中で、情で入団しなければいけないと思っているのなら辞めておけと。
「卒業してしまえば、もう今の様な扱いは出来ない。ナマエ、私は君にも心臓を捧げろと言うだろう」
改めてそれを言葉にするのが、彼らしいなとナマエは思った。
「大丈夫ですエルヴィン団長。最初からわかってます。リヴァイ兵長が私に優しいのも、今は訓練兵だからですし」
「それはまた別の問題だろうがね」
2人はエルヴィンの執務室のソファに腰かけ、紅茶を飲みながらそんな話を続けていた。
総じて話題は「死ぬ覚悟をしておきなさい」だ。しかしどうしてか、ナマエには直前まであった不安が段々と消えていくのがわかった。
「エルヴィン団長は、やっぱりさすがです」
「ナマエには期待しているんだよ。入ってもらうからには、人一倍働いてもらわなくては」
ふとエルヴィンが時計に目をやると、時刻は11時を回っていた。
「すまない、もうこんな時間か。リヴァイのいない時を見計らっていたからな」
「兵長の?どうしてですか?」
「あの男は、なかなか君と私を2人きりにしてくれないからね」
「そうなんですか?」
エルヴィンの言う意味がうまく理解できず、ナマエは不思議そうに瞬きを繰り返す。
「ああ……そうだ。入団にあたって、これは個人的なことだが」
「はい」
「人類最強と謳われるリヴァイでさえも、調査兵団にいる限りではいつどうなるかわからない。新兵であるナマエはそれ以上だ。あまり現を抜かすのはよくないが、君は早く大人になるのがいいだろう」
「はい?」
さらに理解に苦しむ言い回しに、ナマエは困惑した。
「今だと思ったら迷うな、とだけ言っておこうか」
それって、とナマエが口にしようとしたが、エルヴィンは「おやすみナマエ」と退室を促したので、大人しく「おやすみなさい」と言ってナマエはそれに倣った。
最後の意味がわからないほど、もう子供でもない。
***
ナマエが調査兵団に滞在する間、リヴァイの斜め前の部屋に泊まるのが常だ。
そこは元は掃除用具室だった。小綺麗になってはいるが、ベッドとサイドテーブルだけでいっぱいいっぱいの小さなスペース。
それでもナマエはそこを、まるでお姫様の寝室か何かのように喜んでいた。
リヴァイはノックもせずに、少しだけその扉を開く。
サイドテーブルの上には小さなランプの灯りが揺れており、穏やかな寝息が響いている。しかしナマエの華奢な白い脚は、床の上に投げ出されていた。
リヴァイはもう少し扉を開く。
ナマエはベッドの上に上半身を預け、傍らには読みかけの本が開いたまま。何故床の上で読書をしていたんだとリヴァイは声を出しそうになったが、部屋の中に入って扉を閉めた。
視界が揺れるのはアルコールのせいか、部屋の灯りか、否か。
リヴァイはナマエを抱き上げると、ベッドの上に降ろした。
少しでも身軽に来れるようにと、最近ではこの部屋に寝巻きも置いてある。いつからか普通に着ているようになった、リヴァイの古いワイシャツがそうだ。
いつもなら、彼女は目を覚まさない。それをリヴァイは知っていた。けれど
「ん……リヴァイ兵長?」
薄く開く瞳。
小さく整った顔に、リヴァイの陰が落ちる。
「よぉ、来てたのか」
「はい、急に……あの、リヴァイ兵長?酔ってます、か?」
ほのかなアルコールのにおいが、ナマエの鼻腔をくすぐった。
「酔ってる?俺がか?……っは」
2人の唇を重ねる事が出来るまで、あと僅かな距離。
しかしリヴァイはそれを埋めようとはせず、ナマエをそのまま見下ろして、枕に投げ出された髪の毛を梳いていた。
ナマエの脳裏にエルヴィンに言われたことが過ぎる。
(今、言ってしまえばいいかもしれない)
言葉にすれば埋まる不安もある。そうじゃないか。
「……リヴァイ兵長、私、お話ししておきたいことが」
「なんだ」
ごくりと喉が鳴る。それは双方、同じ。
「私、リヴァイ兵長が好きです。1人の人して、好きです。貴方のものになりたい」
懇願するようにナマエの瞳が揺らめく。リヴァイの鋭い目つきが、少しだけ見開いた。
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