いつ魔法がかかるの?
(キスをしたらナマエは目覚めるのか?逆じゃないか?むしろもう、目覚めなくなるんじゃないか?)
食堂で朝食を摂るジャン達104期調査兵らの中に、慌てた様子のエレンが飛び込んで来た。あんまりな慌てようだったので、コニーが「どうした」と声をかける。エレンは真っ直ぐジャンの目の前へと立ちはだかった。
「ナマエが目覚ましたぞ」
「……は」
コニーとサシャが同時に「やった!」と立ち上がる。アルミンが「よかった」と胸を撫で下ろす。ミカサが安堵したため息を零す。
「早く行けよ」
エレンはぶっきら棒に顎でしゃくってみせた。有無を言わせない雰囲気に、ジャンの額に青筋が立つ。
「いや……これから訓練があんだろ」
「さっさと行って来いよ、ジャン」
「なんでお前に指図されなきゃならねぇんだよ」
ジャンも立ち上がる。睨み合った2人は、じりじりと間合いを詰めた。至っていつもの光景だ。他の104期一同は、黙って朝食を摂りながら成り行きを見守る。
「すぐにでも走り出したい癖によ。何意地張ってんだ?」
「あ?どういう意味だそりゃ」
「俺に言われなきゃわかんねぇのか?」
木製の椅子が豪快な音を立てる。サシャはすかさず、スープが零れないように丸い皿を持ち上げた。
エレンの襟ぐりを掴んだジャンの方が興奮している。滞りが、言葉にならなかった。
「わかるさ……お前に言われなくてもな、エレン」
「なら行けよ」
クソ、と吐き捨てながらジャンはエレンから手を離した。長いため息が響く。まだ空のお日様は生まれたての時間。窓の外を見やり、ジャンはエレンに向き直った。
「……ありがとよ」
倒れた椅子を起こし、ジャンが走り出す。コニーとサシャが軽い調子で持て囃す中、アルミンが一際大きな声で叫んだ。
「ジャン!まだ薔薇は咲いていたよ!厩の裏道を少し進んだ辺りだ!」
ジャンは視線だけで振り返り、アルミンに背中を向けて手を振った。面倒なことを言うな、と思いつつも。
ブーツの裏を柔らかな土が受け止める。明け方まで雨降っていたからだ。ジャンがふいに空を見上げると、どうしようもなく晴れていた。生い茂る緑の中に、真っ赤な薔薇がぽんぽんと跳ねるように咲いている。一番手近な一本を手折り、ジャンは再び走り出した。
(ああ、クソ。どうして俺はこう……)
エレンに言われて飛びだして来たけれど、ジャンはナマエに伝える事が出来るのだろうか。今の今まで、ずっと言えなかった。
視界に靄がかかる。出会ってから一緒に過ごした時間、重ねた日々。楽しい時も、辛い時も──
「ナマエ!」
彼女が寝たきりになっていた部屋を開くと、振り返ったのはハンジとリヴァイだった。
「おや。王子様が遅れて登場だ」
飄々というハンジに、ジャンは口を噤む。リヴァイはハンジを一瞬だけ睨み、ジャンの肩に軽く手を置いて、すぐに部屋を出て行った。
「もうお医者様も帰ったんだ。ゆっくり話すといいよ」
「あ……はい」
すっかり出鼻をくじかれた。ハンジが部屋を出て、ジャンが扉を閉めた。横になっていたナマエが体を起こそうと身をよじる。
「そのまま寝てろよ」
「なんだか久しぶりだね、ジャン」
「当たり前だろ。どんだけ寝てたと思ってんだ」
「今リヴァイ兵長にも同じこと言われた」
唇をわななかせ、ナマエが笑う。上手く笑えない風だった。体の筋肉が言う事を聞かないのだ。
ジャンはほとんど枯れた薔薇の隣に一本、今手折ったばかりの薔薇を突き挿した。その様子を見ながら、ナマエは「らしくないなぁ」と呟く。
「他のみんなは……?」
「こっちの状況説明はおいおい聞けよ。寝覚めにはあんまり良い話しじゃねぇからさ」
「そっか……そうだね。じゃあ、寝覚めに良い話しを、ジャンがしてくれる?」
こめかみの辺りを人差し指で掻きながら、ジャンはナマエの枕元あたりに腰を降ろした。
「目、閉じろよ」
「今起きたばかりなのに?」
「いいから閉じろよ」
ナマエが目を閉じる。薔薇のむせかえるような甘いにおいが、室内にこだまする。彼女の唇は赤い。本当は怖い。けれどもう、ジャンは逃げなかった。
唇が触れ合うと、ナマエが体を強張らせた。びっくりして一瞬だけ震えた後、微動だにしなくなった。
どれくらいの時間かわからない。ただ触れ合う部分が優しくて、愛しくて。速くなる鼓動はいつになく、己の為にと動いていた。
「な……なに?」
ようやく体を起こしたジャンに、ナマエはやっと瞼を開いた。ジャンが気まずそうにナマエを見下ろしている。
「言いたくなかった。本当は……いや、認めたくなかったっつーか」
「ジャン?」
「ナマエが意識を失ってから、どっかで俺、喜んでた。そのまま寝てれば、お前が守られるんじゃねぇかって。今まで……訓練兵ん時とか、そういう時のまま、お前だけは変わらねぇんじゃないかって」
ナマエは微笑み、右手を持ち上げた。ジャンがすかさず、それに手を重ねる。
「臆病だなぁ、ジャンは」
「悪いかよ。そんだけお前が好きなんだよ、ナマエ」
花が咲いたような笑顔だった。まだ青白く、痩せこけていたけれど。ナマエは満面の笑みで笑った。
「ありがとう。私も、ジャンが好き」
「あっさり言うなよなぁ。ここまで覚悟決めた俺が間抜けみたいじゃねぇか」
「あはは。覚悟、決めてきてくれたんだ」
「あの死に急ぎ野郎にせっつかれたけどな……この俺が」
繋いでいた手を離して、ナマエがジャンの頬に触れる。
「目が覚めてからキスしてくれるなんて。ジャン王子は随分のんびりしてるんだね」
「だからせっつかれたって言ってるだろ」
「私しばらく寝てたみたいだけど……これからはまた、ジャンの側にいるよ。守りたいって思ってくれて嬉しかった。でも私は、守られるだけは嫌だよ」
ジャンが呆れたように笑う。眉尻を下げて、少し傷付いて、でもやっぱり嬉しいのだ。
その笑顔のまま、ジャンの顔がナマエへと近付く。再び重なる唇。
「ん……待って、ジャン……ドアの外」
「ん?」
少しだけ唇を離して、ジャンは視線だけで扉の方を注視する。そして足音を忍ばせ、ゆっくりと扉に近付いた。ふいうちでドアを開くと。
「お前ら……何やってんだよ。訓練は」
額にくっきりと青筋を立て、ジャンはそこにいる全員を睨んだ。コニーとサシャ、アルミンとミカサ、それから不機嫌そうなエレン。
「いやぁ、どうなったのかなって。成り行きを見守る権利が私達には!ねぇ、コニー?」
「そうだよ。どんだけ心配したと思ってんだよ。なぁ?」
散れ散れとジャンはてのひらで二人を追い払う。サシャは「また今度来ますねナマエ」と声を立てながら遠ざかって行く。
「今日の所は僕らももう帰るけど。ナマエによろしく、ジャン」
「真面目に言ってっけど覗きだからな、アルミン」
「エレンとアルミンは悪くない。私が無理矢理連れて来た」
あのなあ、とジャンがため息を吐く。エレンは扉から中を覗き込み、ナマエに軽く手を振った。ありがとうエレン、とナマエが言うと「またな」とだけ言って、エレンもコニー達の後を追う。
「みんな相変わらずだね。私も早く訓練に戻りたいな」
「すぐ戻れるさ……お前なら」
そうして二人は幸せに暮らしましたとさ、と締めくくれたらどれだけよかっただろう。二人の物語はこれからも続いていく。
しかし以前と変わった事は、二人の気持ちがちゃんと通じ合ったという事。時折キスをして、逢瀬を重ね、ジャンはナマエに薔薇を手折ってプレゼントした。
一本ずつ渡される薔薇の数を、ナマエは日々数えている。
「おやすみ、また明日ね。ジャン」
サイドテーブルには今日も薔薇の花が揺れている。ナマエはジャンの腕の中に潜り込み、瞳を閉じた。眠りにつくまで、ジャンはずっとナマエの背中を撫でる。優しい夜が更けてゆく。
そして二人にはまた、明日がくるのだ。
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