第七話

 例えるなら、またたびを与えられた猫、だろうか。ふわ、ふわと鼻腔にそのにおいが香るたびに、名前は全身の血が沸騰するかの如く、身体に熱が通っていくのを感じていた。頬は逆上せて真っ赤に染まり、目にはうるうると涙の膜が張る。風に乗ってきたにおいだけでも十分うっとりしてしまうほど心地が良いのに、それが今、鼻先に触れて、脳に染み入るほど濃くかおっているのだ。

 名前は今、マダラに身体を背負われていた。泥だらけになった足を洗ってやると言われて、川の方まで運んでもらっている。マダラは、目つきは悪いし口調もすこし乱暴なところがあるが、同時に、兄たちとよく似通った優しさを持ち合わせている男だった。それはマダラにも兄弟がおり、小さい時から面倒を見てきたことがあるからなのだが、もちろん名前がそんなことを知るはずもない。ただ、血と泥に塗れた足を心配してくれたその時の顔が、どことなく兄のような安心感があった。だからほいほいと信用してしまったのだが、恐らく兄たちが知ったら、卒倒するだろう。何せ知らぬ人間に名乗ってはいけない、話しをしてはいけない、ついて行ってはならないの三拍子全てを破っている。

「ん……」

 それに、名前はマダラが発するにおいにすっかり酔ってしまっていた。もともと柱間がこのにおいを連れてきてから、ずっと焦がれていたのだ。想像していた可愛いケモノとは全く違うものではあったけれど、肩の長さまで伸びたマダラの髪は、ふわふわと名前の頬を刺激した。自分や兄のものとはまったく肌触りが違う。マダラに知られたら怒られそうだが、名前はマダラに大きな犬や狼などの姿を重ねて見ていた。気性の荒いところも、釣り上がった瞳も、ふわふわと動く髪も。名前が好きなものと同じ形をしている。

「……おい。こら」
「な、に」
「擽ってぇから、そんなに寄るな」

 マダラの頸に鼻先をすり寄せていたら、怪訝そうな声で言われた。柱間はこうやって名前が甘えると喜ぶのに、この少年はどうやら違うらしい。名前が人に対する行動において比較対象とするのは、全て自分の兄たちだ。なにせ、それしか知らない。兄は家族で、マダラは他人。本来なら区別するべき所なのだが、名前はある意味世間離れしたところで育てられている。つまり常識に乏しい。
 とはいえ、人が嫌がることはしてはならないと、扉間からかつて教えられたことがあった。マダラが嫌だといったなら、これ以上は駄目なのだ。名前は渋々鼻先を離すと、振り向いたマダラとばっちり目があった。

「……お前、なんつー顔してんだよ」

 名前があまりにも表情を蕩けさせていたので、マダラは口をぽかんと開けた。自分がどんな顔をしているのかはわからなかったが、何となく意識がぼんやりとしているから、締まりのない顔をしているのだろうということはわかった。

「だっていいにおい、するから」
「……はぁ?! 変態みてーなこと言うんじゃねえ」

 今度はマダラが顔を赤くする番だった。生まれてこの方、いいにおいがするなんて、擦り寄られた経験はない。しかも相手は女児だ。色仕掛けでもなんでもない真っ直ぐな言葉を浴びせられると、流石に調子が狂ってしまう。それにしてもこの少女、やけにずけずけとモノを言う。普通の人間なら多少の羞恥を持つようなことも、子どもであるということは抜きにして、なんの躊躇もなく言葉にする人間はそういない。どんだけのびのびすくすくと素直に育てられたんだ。マダラには、ますます少女の生い立ちへの謎が深まるばかりだった。

「おまえ、じつはどっかの貴族のオヒメサマとかか?」
「……おひめさま?」
「なんか浮世離れしてるし。箱入りっぽいし」

 名前は言われている意味が全くわからなくて、首を傾げた。なにも言わない名前にマダラは特に反応することもなく、砂利道を踏みしめながら河原に向かいまっすぐ歩いて行く。

「つーか忘れてたけど、おまえ迷子か?」
「……あの、」
「あー……家だ。家の場所、ちゃんとわかるのか」
「それは、わかる」

 名前がきっぱりと答えたので、マダラは意外そうな声を出した。家がわかるということは、つまり、この少女は迷子ではなく家出か何かしてきたのだろう。親か兄弟と喧嘩でもして、草履も履かずに出てきてしまった。恐らくそんなところだ。

「おまえ、兄弟とかいんのか」

 マダラがたずねると、名前はこくり、と首を縦に振った。数秒考えるそぶりをして、口を開く。

「兄さまが……えっと」
「ひとり?ふたり?それともさんにんか?」
「……えっと、」

 どう伝えるべきか、名前は悩んだ。兄は四人いるが、今名前が会えるのは二人だけだ。瓦間と板間の顔が、ふっと脳裏に浮かぶ。そして扉間と―― 柱間の顔が過ぎる。
 名前はその時、兄の顔を鮮明に思い出していた。なにも告げずに家を出てきてしまって、今頃兄はどうしているだろうか。名前のことを心配して、探してくれているだろうか。扉間は、修行から帰ってきただろうか。どんどん頭に流れ込んでくる兄たちの姿に、名前はぐっと言葉に詰まった。

「にぃさまが、いる、から」

 マダラのにおいに包まれていて、すっかり忘れていた兄のにおいが急速に恋しくなった。ぐず、と鼻を啜り出した名前に、マダラはふっと口を緩める。

「じゃあ、早く帰ってやんねぇとな」

 あやすように、マダラがとんとんと名前の背を手で叩く。その柔らかな表情と、優しい声に、名前はまた優しい兄の顔を思い出した。そして思わず、口に出して呼んでしまった。兄のなまえ。その名を聞いたマダラの足が、ぴたりと止まった。










 家に帰った名前を待ち受けていたのは、それはもう、これでもかというくらい真っ赤に目を腫らした柱間と、もともと赤い目をギンギンと鋭く光らせて腕を組み、仁王立ちをする扉間の二人だった。

「名前、言うべきことはわかるな」
「とびらまにいさま、その、う、ごめん、なさ」
「名前!名前!お兄ちゃんが悪かったぞ……ほんとうにすまん……名前…うううおお!」
「兄者!邪魔だ!名前から離れろ!」

 居間で正座をして頭を下げようとしている名前の背に、柱間ががばりと覆いかぶさっている。もう二度と離すまいとして名前を胸に抱き込む兄の頭を、扉間がぐいぐいと手で押し返し、名前から離そうとしていた。
 柱間はあのあと随分と騒いだようで、部屋のあちこちに色々なものが散乱している。ひいては箪笥の引き出しまであちこち開け放されていることから、よっぽど名前のことを探したのだろう。さすがに箪笥の中に隠れられるわけはないのだが。部屋の様子からも、柱間の錯乱具合がひしひしと伺えた。
 扉間は至って冷静に、ことの経緯を全て話せと名前に問うた。どうして一人で外へ出て、森の奥へと向かったのか。しかも扉間ですら家からでは感知できぬほど遠くまで。名前は、よもやそんな遠くまで自分が走り去っていたことに驚いていた。無我夢中で、その時はわからなかったのだ。帰りも兎に角急いで兄の元へ戻らねばと、必死の思いで森を駆けてきた。

「そのもりのおくに、おっきなかわがあって」
「……川?」

 わーわーと騒いでいた柱間は、それを聞いてぴたりと動きを止めた。大きな川、というと。この近くで川が流れている地域といえば、かつて柱間が友人と水切りをして遊んでいたあの場所しかない。柱間と扉間は、思わず顔を見合わせた。自分たちの言いつけをよく守り、約束を違えたことなど一度もなかった妹。それがどうして今回、こんな事態になったのか。
 
「あのにおいがした」

 名前がふと視線を下ろした。その先を辿ると、白い足先にくるくると巻かれた紺地の布。柱間は目を見開いた。今の今まで、気がつかなかった。特殊な風合いで染められたその色に、柱間は強い既視感を覚えた。

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