第五話


「はしらま兄さま、きょうもいかないの?」

 名前は兄の瞳をじぃと見つめた。畳の上で大の字に寝転ぶ柱間は、名前の目を見つめかえして、ああ、と小さく返事をした。

 明らかに、兄の様子が変だ。体調が悪いわけでも、雨が降っているわけでもないのに、兄はここ最近ずっと家の中にいる。――あのにおいのところへ、ぱったり行かなくなってしまったのだ。何かあったのは明白で、名前は心がざわざわとするのを感じていた。

「しゅぎょうは?」
「……今日は休む」
「きのうもそうだった」
「そうだったかな」

 何を話しても、こんな感じで投げやりに返されてしまう。名前が柱間と話していると父があまり良い顔をしないので、あくまでこっそりと様子を見にきているのだが、柱間の方が名前の相手をしてくれなくなった。前は名前が何を話しても、頬を綻ばせて楽しそうに返してくれていたのに、今の柱間は言葉のひとつひとつがちくちくと尖っているような、苛立たしさを帯びているような、そんな感じがするのだ。名前は前の優しい兄に戻って欲しくて、今日も懲りずにずっと話しかけている。
 
「はしらま兄さま、なまえ、うらやまのレンゲソウをみにいきたい」
「……扉間が行ってくれるさ」
「とびらま兄さまは、おひるからしゅぎょうがあるって」
「んー……」

 ごろり、と柱間は横を向いた。名前は兄の横にしゃがみ込み、後ろからゆさゆさと背をゆする。

「なまえ、はしらま兄さまとおそとにいきたい」
「……悪い。今日はだめだ」
「じゃあ、いつなら、」
「名前」

 びくり、と肩が跳ねた。柱間が咎めるように語気を強めたからだ。柱間の背から手をよけて、ちくりと痛む胸元をぎゅうと握りしめる。ついに名前は柱間に、怒られてしまった。
 それきり、柱間は口を閉ざした。大好きな兄にそっぽを向かれて、叱られて、名前は心が千切れそうだった。目元に涙を溜める名前にも気がつかず、柱間は目を伏せてしまう。名前が泣きそうになっていたら、柱間はいつも頭を撫でて慰めてくれた。どうしたんだと血相を変えて、優しく抱きしめてくれたのに。今は、名前の方に見向きもしてくれない。
 お前は邪魔だと強く突き放されたような気がして、名前はもうその場に居ることが出来なかった。離れていく気配を追うこともせず、柱間はぼんやりと畳の網目を見つめている。




 夢を語り合った友人との別離。柱間は未だに心が晴れなかった。弟たちが死んで、アイツと出会って、ようやく立ち直れたと思ったら、結局また大人たちに厳しい現実を突きつけられる。
 今度また、うちはとの戦があるらしい。それにはきっと、アイツも出てくるだろう。柱間は初めて出来た友人に、今度は刃を向けなくてはならない。本気で、戦わねばならない。嫌でもその現実に向き合わなければならないことに必死で、妹を気にかけてやる余裕もなかったのだ。









 ばく、ばくと心臓が大きな音を立てている。名前は気づけば柱間のにおいがしなくなるところまで、森の奥へと歩いてきてしまっていた。おそらく来た道を真っ直ぐ辿れば家に帰ることもできるのだが、今はあまり柱間に会いたくない。これ以上、邪魔者扱いされるのは嫌だ。柱間もきっと、名前の顔を見たくないのだろうと思う。だからこんなに遠くまできてしまったわけだが――名前は、今日初めて父の言いつけを破ってしまった。
 幸い、父は今日夜遅くまで家を出ると言っていた。すぐに帰ってくることはない。心配した柱間が迎えにきてくれることを考えてはみたものの、今日のあの様子だと、もしかしたらこのまま放っておかれるのかもしれない。そう思うとやっぱりどうにも悲しくて、涙が出てきてしまった。兄といたいのに、今は一緒にいられない。

 名前はぼろぼろと落ちてくる涙の粒を拭いながら、さらに森の奥へと歩いて行く。足が勝手に、家とは逆の方へ向かってしまっていた。ひとりで勝手に外を出歩いたことが知れたら、父にどんな罰を受けるかわかったものではない。恐ろしくもあったが、名前にとって優先するべきは自分が罰を受けることよりも、柱間との関係をこれ以上悪化させたくないということだった。

 歩くたびに柔らかな土が足の指の間に入り込む感触に、ふと、名前は自分が裸足であることに気がついた。裸足で、しかも泣きながらあても無く森を歩いているなんて、惨めにも程がある。それにこの先は、兄たちとも歩いたことがない、未知の世界だ。帰り道がどこまでなら追えるのかも、名前にはよくわからない。柱間のことはかなり気になるが、やっぱり今のうちに帰った方が良いのではないか。そんな考えが過ぎった、その時だ。


 ふわりと、名前の鼻先を掠めた。
あのにおいが、南からの風に乗り、ほのかに香ってくる。


 名前はハッと顔を上げて、においのする方向へと目を凝らした。背の高い木々が生えそろう野山の先に、少し開けた場所がある。目を閉じて鼻先に神経を集中させると、その奥から、涼やかな川の水と、日に焼けた石のにおいが現れた。その先にきっと、河原があるのだろう。そしてそのにおいは、かつて柱間から香ってきたものと、全く同じものであった。
 名前はごしごしと目を拭い、再び地面を踏みしめる。あの焦がれたにおいが、すぐそこまで迫っている。柱間があんなに楽しそうに笑って、毎日連れ帰ってきていたあのにおいの持ち主だ。それを連れてくれば、また前の兄に戻るかも知れない。名前は砂利で足の裏が傷つくのも厭わず、夢中でその場所へとかけていく。

 足音が、どんどん軽快になる。早く、早くと気が急いで、呼吸がたちまち苦しくなった。名前はぜえはあと息を切らしながら、ついに、森の奥の開けた場所に出てきた。そしてその視線の先には――想像していたよりもずっと大きくて、目つきの鋭い、真っ黒な少年の姿があった。

「……あ、」

 ぶわ、と全身の毛が逆立つような感覚。野生みの混ざる豊潤で芳しい、蕩けるような甘さを纏う少年。名前はがくり、と膝を折った。それを前にして、立ってはいられないほどの衝撃を受けたのだ。涙はすっかり乾いていたが、代わりに手足が痺れるような熱を持っている。このにおいは、まるで即効性のある毒のように、名前の身体に熱を生んだ。

「なんだ、お前」

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