第四話

 
 また、あのにおいがする。

 板間の死後、名前は何度もそのにおいと出会うようになった。それは決まって柱間が外から帰ってきたときに、連れて戻ってくる。日を重ねるたびに濃くなってゆき、名前はもう完全にそのにおいを覚えていた。

 柱間はここ最近よく外に出るようになった。どこかで修行をしているようなのだが、名前は柱間がいつもどこでなにをしているのかを知らない。修行であれば邪魔は出来ないし、そもそも名前はあまり外に出てはいけないと言われている。あの一件があってから、父は名前に対してさらに行動を制限するようになった。柱間が名前と話をするときなどは、とくに目を鋭くしている。変わったのは、無関心から過保護になったということだ。名前に医療忍術の才があるということは、扉間や他の千手の者にもまだ伏せられている。

 それに、見知らぬ人間には姓も名乗れぬ戦乱の世だ。千手家当主の末娘で、しかもまだ四つの女子が、ひとりふらふらと出歩けばどうなるか。名前は世間知らずなところはあるが、決して馬鹿ではない。兄のことが気にはなっても、あとを追いかけることなど考えたこともない。そんなことをしたらむしろ、兄が父から怒られるだけだ。だからいつもじっと家の中で、兄たちの帰りを待っている。


 今日も柱間はいつもと同じ時間に家を出ていった。庭の草むしりをしていた名前は、ふと、兄の向かった方角へ目をはしらせる。近頃の兄は、なんだかやけに楽しそうだ。板間の死後は随分長いこと落ち込んで、塞ぎ込んでいた様子ではあったが、最近はまた前のように笑うようになっていった。名前はそれが何となく、あの"におい"と関係があるのだと感じていた。
 名前の勘が正しければ、においの正体はきっと、何か愛らしいけものの類に違いない。そもそもにおいの性質というのは、生き物とそうでないもので全く異なっている。花や草木は、たとえどんなに近くに寄ったとしても、感じるにおいの程度はいつも同じ。逆に生き物であれば、そのものに近づけば近づくほど、においの成分が濃くなってゆく。日に日に兄から香るにおいは強くなるので、きっとそうだと思った。兄は動物がすきだったし、面倒見がよく、動物たちからも好かれる性質だ。
 もしそうだとしたら、名前も一度会ってみたかった。たくさん毛の生えた生き物なら、その毛皮に顔を埋めて、思いきりそのにおいを吸いこんでみたい。名前は柱間の知らないところで、そんな想いを巡らせていた。







「名前」

 しばらく耽っていると、後ろから声をかけられた。しゃがんで草むしりをする名前の頭上から、扉間がひょっこりと顔を覗かせる。

 少し話そうと言われたので、名前は手についた土をはらってから、のそりと立ち上がった。いつもの無表情でいる兄の顔を見上げれば、ぽん、ぽんと頭を撫でられた。扉間は口に出して言うことは少なかったが、こうして無言で頭を撫でるときは、いい子だな、と名前を褒めているときだ。名前は一人で外に出られないかわりに、今よりずっと幼い時から家事の手伝いを任されている。針仕事はまだまだ下手くそだったが、掃除や洗濯は大得意だった。そろそろ料理なんかも出来るころだろう。
 名前は、何に対しても基本的には文句を言わない。言われたことを疑いもせず、そのまますんなりと飲み込んでいる。まだ幼いのだから当たり前だと思うかもしれないが、我儘なところが全くない子どもというのは、少しばかり不幸だ。名前が家の手伝いをするのは当たり前だと父は言うが、本来はまだ遊び盛り、甘え盛りな幼い子どもだ。言われたことを当たり前にやるのを決して当たり前だと思わずに、褒めてやることも大事だと、扉間は常感じている。

 名前は褒めて欲しくて手伝いをやっているわけではないが、褒められるのはもちろん嬉しかった。だからこうして扉間に頭を撫でられるたび、この兄のことを好きになった。優しい兄に褒められることが、名前にとっていちばんの幸福だった。



 扉間と名前は縁側に並んで腰を下ろした。父は一族の会合、柱間はいつも通り修行。扉間も普段は勉学に励んだり修行をしたりと忙しい身なので、名前と二人きりで家に居るというのは中々に珍しい光景だ。
 自分からよく喋る柱間とは違って、扉間は口数が少ない。名前が聞けば大抵のことは教えてくれたが、扉間から名前に話しかけてくるということは滅多にないことだ。そんな兄から話したいこと、と言われたので、名前は何事かとそわそわした。

「……兄者のことで、お前に聞きたい」

 あにじゃ。名前もつい先ほどまで柱間のことを考えていたので、どきりとした。

「最近なにか、変わったことはないか?」
「…………あ、ある」

 まさにそうなのだ。扉間に心を読まれたのではないかと思うくらい。むしろ誰かに話したいと思っていたことなので、名前は嬉しくなった。

「へんなにおいがする!」
「……それは、生き物のにおいか?」
「うん! なまえはぜったいにそうおもう!」

 名前は無邪気に笑っていたが、扉間は眉を寄せて難しい顔をした。楽しいお話をするはずだったのに、なにやらそんな雰囲気ではない。それから、においの特徴を聞かれ、名前は柱間に言った内容と全く同じことを話した。



「好きなにおいというのは……良くないな」

 扉間の眉間に深く刻まれたシワをみて、名前はきょとりと目を丸めた。

「どうして、よくないの?」
「……名前にとっても、兄者にとってもよくないからだ」

 扉間には珍しく、歯切れの悪い返事だった。名前はうんうんと唸った。あのいいにおいが、名前や柱間にとって良くないものらしい。扉間がそう言うのだからそうには違いないのだが、どうしても、すんなりと納得できない。

「でも、はしらま兄さま、すごくたのしそうなのに」

 名前がそういうと、扉間は困ったように眉を下げた。二番目の兄のこんな表情は、あまり見たことがない。名前はぎゅっと心臓が押し潰されたような感じがした。はしらま兄さまが楽しいことは、とびらま兄さまにとって困ること。ならば、名前はどちらに共感すれば良いのか。そんなの、選べるはずがない。名前にとって柱間も扉間も、同じくらい大切な存在なのだ。そのどちらが傷つくようなことも、あってはならない。

「とびらま兄さまは……どうしたら、たのしくなれるの?」

 名前が扉間の瞳を覗き込むと、心底驚いたような顔をして目を見開いていた。扉間からすれば、まさか自分の心配をされるような話をしていたわけではなかった。しかし、事実、扉間は胸が痛む思いだった。自分は兄を裏切るようなことを父から命ぜられてやっている。兄が最近会っているのは、千手と敵対関係にあるうちは一族の子どもだ。しかも兄と同じような立場にある、うちは族長の長男。それをあの父が、許すはずもない。

 そして、この妹も気付いていた。兄から香るにおいというのは、十中八九、そのうちはの子のものだ。名前はそれを、自分の好きなにおいだと言った。
――あの兄は気づいているだろうか。名前がそのにおいを持つ者に、本能から惹かれ始めているということを。

「……名前がここに居てくれさえすれば、俺はそれで十分だ」

 らしくない。そう思いつつも、釘を打たねばならなかった。名前の心が、自分の手の届かないどこか遠くへ行ってしまうことのないように。

top

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -