第十話

 弓状にしなった月白が、梢の向こうの空に浮かぶ。川から山に吹き上げる空気は、高く結われたまっすぐな黒髪を、一筋、二筋と、頬の上に乱していた。淡い月光を照り返し、天に向かって伸びる鋭利な刃は、夜光虫に似たゆらめきを見せている。
 
 忍として生きる者は、なにがあろうと、戦場で心を乱さぬよう訓練されている。一瞬の心の乱れが隙を生じ、それが生死を分けるのだ。
 一切の感情を殺し、心身全てを戦いのために捧げられるような者が、本当にいようものなら、それはもはや人ではない。人のかたちをした、ただの殺戮兵器だ。生まれながらに始祖の力を持ち、戦乱の世で神の子と謳われしこの、千手柱間という男でさえ、憂慮と哀傷の情に今なお心を震わせている。神の子も所詮、血生臭い人間であるということだ。

「……戦は終わったのだ。退け、マダラ」

 黒い瞳が揺れている。チャクラの流れを見切る写輪眼を通さずとも、感情の乱れは明らかだった。柱間がただひとり立つその背には――決してここを退けぬ理由がある。

 三日三晩に渡った戦の折、日の出とともに、全軍撤退の命を受けていた。消耗戦となれば、うちは側が圧倒的に不利になる。千手は強靭な肉体を持つ者が多く、戦が長引けば長引くほどその真価を発揮する一族だ。
 
「……ああ。ただし、お前の弟の死を見届けてからな」

 マダラの父であり当主であるうちはタジマは、虎視眈眈と、常にうちは勝利への算段を練っていた。二兎を追う者は一兎をも得ず――此度の戦の勝利は叶わずとも、ただでは退かなかった。とりわけ優れた感知能力を有し、猛き智将と名高い千手扉間の戦傷は、今後の千手との戦において、甚大な影響を及ぼすだろう。
 この機を決して逃してはならぬと、父の命により、マダラは殿を務めることとなった。本隊の後退を掩護することだけでなく、攻撃の手を緩めぬことで、疲弊した医療忍者たちの回復を妨げる目的がある。

 扉間の傷口には、毒刃の砕片が残っている。扉間が先の戦で負った肩の傷がまだ十分に癒えていないことを、うちはの参謀たちは見抜いていた。医療忍術を扱える者が配置された後方部隊に精鋭を向かわせ、徹底的に叩いたのも、このシナリオを完全に導くための布石だ。
 千手一族は薬学の知識に聡い者が多く、解毒方法自体は簡単に見出されてしまうだろう。ただし、あの毒は血液凝固障害を引き起こす類のもので、止血に通常よりも多くの時間がかかる。十分な血液、補液が確保できないこの戦場において、傷を塞ぐだけの簡易的な処置は無意味に等しい。

 もはや一刻の猶予も許されない。柱間とて、それを十二分に理解しているだろう。今すぐこの戦場から退き、村に連れ帰って適切な処置を施さねば、弟は確実に死ぬ。それが出来ぬのは、今ここで柱間の足止めをしている己がいるからに他ならない。

「俺を殺して押し通るしか、弟を救う道はない。……わかっているだろう、柱間」

 己が同じ立場だったとして。どんな手段を講じてでも、弟の命を護ることに徹するだろう。柱間とて、きっとそうであると信じていた。――あの河原で、幼い弟の死を嘆いていた柱間の心根を知っている自分だからこそ、そう思うのだ。本気の、命の獲り合いをするつもりで、マダラは敵の本陣にひとり赴いた。
 それが一体どういうわけか、柱間は防御に徹して、こちらに攻撃を仕掛けてくる様子はない。最愛の弟を傷つけられてもなお、かつての友を前にして、刃を奮うことを躊躇している。

 マダラはこの時、拭きれぬ違和を感じていた。柱間の情の深さはマダラとて理解しているつもりだ。だが、今にも死地へ向かおうとする弟を捨て置いてまで、敵に容赦をするような男だろうか。時間稼ぎをすればするほど、何かが、おかしいのだと。
 この場に押し留められているのは、柱間ではなく、自分のような、そんな違和感がある。

「マダラ。俺はお前を、殺したくはない」

 この期に及んで、どうしてそんな言葉を吐けるのか。真っ直ぐに射抜く瞳には、悔恨の情が浮かんでいる。一体この男は、何を悔やんでいるというのだ。弟を救えぬことに対して自責の念に駆られているのであれば、今すぐその刃を振り翳せば良いものを。
 柱間の考えが、まるで理解できない。心根がまるで見えやしない。かつて同じ理想を描いた友であった男の見つめる先に、一体何があるというのか。

「扉間は死なん。俺はそう、信じている」

 闇夜の中においても明瞭で良く通る声に、マダラははっきりと、強固な意志を感じた。
 柱間は、決して扉間の命を諦めているわけではない。ならば、柱間が見せた憂慮と哀傷の情は、一体どこに向けられたものか。何に対して心を乱し、震わせているのか。

「……何を、信じるというのだ」

 こうしている間にも、扉間の生は確実に遠ざかってゆく。回復させるための医療忍者も皆、満身創痍であるというのに。
 不信感は募るばかりだ。攻撃を仕掛けるこちらに対して、防戦一方というのも勘に触る。動揺は苛立ちへとすげ変わり、マダラは再び攻撃態勢に入った。瞳にチャクラを集中させ、収めていた写輪眼を再び開く。波打つチャクラの渦が、ふわりと立ち上った柔風に乗る。全神経が研ぎ澄まされて、五感全てが鋭敏に作用する。晒された肌が、地に立つ両足が、荒廃した戦場と溶け合ってゆく。

 その、一瞬の最中。味蕾がかすかな甘みを帯び、鼻先が震え、痺れるような喜悦を脳へと巡らせた。一陣の風とともに駆け抜けてゆく記憶の中で、次第にその懐かしい体温が蘇る。


 マダラの写輪眼は、寸分の狂いなくそのチャクラの性質を見抜く。目の前にいる千手柱間と、ほぼ、それは一致していると言っても良い。僅かだが、この瞳はその色を確かに捉えた。特異なチャクラの熱は、鮮烈に――この身に深く刻まれている。


「なまえ、」


 その名を呼ぶのは、あの日が最初で最後だと思っていた。もう二度と、その存在を感じることはないのだと。舌足らずな声の甘さも、五指に食い込んだ首の細さも、夕陽の赤を溶かした丸い瞳も。記憶の中に閉じ込めたはずの苛烈な色合いが、今この目の先に、かすかに映り込んでいる。

 にわかには、信じ難い。この男が、それを許したというのか。死の香りが濃く匂い立つこの戦場へ、呼び寄せたとでもいうのだろうか。マダラは己の瞳に宿る現実に、言葉を失った。信じたくなかった。全身の血が沸き立ち、手の震えが止まらない。この感情は、怒り、そのものだ。強い憤りを感じて、大炎の如くチャクラが吹き荒れる。
 幼い子どもを激しい戦地へ送り出すことのない、そんな世の夢を、見ていたはずだ。そんな男がどうして、あの細くかよわい手のひらを、繋いでおかなかったのだ。あれが敵の目に触れて良いものか。折角見逃してやったのに。憎しみに塗れた己の心さえ癒して見せたその尊き生が、どうか健やかに育まれてゆくことを、願っていたというのに。


「見損なったぞ、柱間……っ」


 マダラは一瞬の隙に、柱間の懐に飛び込んだ。威嚇したつもりだったが、声が少し震えた。マダラの攻撃を避けようとしてバランスを崩し、のけぞった柱間の顔面に蹴りを入れる。すかさず体勢を整えた柱間は、手甲を盾にマダラの蹴りを受け流し、足裏に溜めたチャクラを一気に放出させて、後方へと飛び去ってゆく。
 刀から離れた柱間の手が、見慣れた印の形を組む。木遁の発動とともに写輪眼が揺らめき、時を同じくして、マダラの手が火遁の印を組み終える。夜の静寂をも焼き尽くす業火の渦が、荒れ果てた大地より伸び出てきた巨大樹の中へと呑み込まれてゆく。ここから先は通せぬとばかりに、地を這う太い根が大きな土埃を上げて、マダラの前に立ち塞がる。

「……この先何があろうとも、俺は、ふたりを護ってみせるさ」

 ならばどうして、お前はそんなに悔いた目をしている。








 素肌を斬り裂く乾いた風を受けながら、名前は目蓋を固く閉じ、闇を照らす白銀の月に祈りを捧げていた。半刻かかる道のりを、その半分で。桃華はその言葉を体現するように、閃光の如く荒地を駆け抜けていた。扉間がいるのは、第一線陣地より約三里ほど離れた、負傷者を囲う第五陣営だ。
 もう間もなく、その時が迫っている。言葉では告げられずとも、名前にはわかるのだ。戦地に近づくに連れて濃くなってゆくにおいは、鋭敏になりすぎた名前の嗅覚を抉る。感じるのは、血の匂いだけじゃない。食べ物が腐った時のものとは比べ物にならないくらい、ひどい臭気だ。直接その姿が見えなくても、ひとの肉が焼け爛れた臭いだと、即座に理解出来た。
 うちは一族は皆、並外れた火遁の術を使う。草木が生茂る大地を焼き払い、人の命を死灰へと変える、大輪の炎。

 臭くて苦しい。痛くて怖い。今すぐこの場から逃げ出したい。――いつか、死地へ出向く兄たちの盾となることを願って。そんなことを考えていた自分の足りない頭が、何とも哀れでならなかった。屍臭に怯えて呼吸すらままならない子どもに、一体何が出来ようものか。忍になりたいと柱間に告げた自分の浅はかさや、名前に嘘をついてまで、忍の道を諦めさせようとした扉間の想いが、胸に痛いほど突き刺さる。震えのおさまらないこの手のひらで、本当に兄を救えるのか。

 名前の瞳が絶望の色に染まろうとしたその時、今まで一度も口を開かなかった桃華が、ゆっくりと喉を震わせて、名前に語りかけた。

「……柱間様は、当主様の命に背き、一度は私を止めようとしました。それでも、扉間様を助けたいという一心で、血が滲むほど強く手を握りしめて……私を送り出して下さいました」

 柱間とて、怖かったのだ。自分の目の前で、弟の命が失われようとしている。この場にいる医療忍者では救えないと諭されて、真面ではいられなかった。絶望感に打ち拉がれる柱間を横目に、この機を待っていたのだとばかりに、父の声が一族の皆の耳に響き渡る。
 桃華は、あれほどに激昂した柱間の姿を初めて見た。情け深く温厚で、時には敵に対しても甘さを見せるあの柱間が、父に向かって激しい怒りを轟かせた。使者に選ばれた桃華にさえ、一時は殺気の籠った目を浴びせ、一歩たりとも動けなくさせたほどだ。
 名前という少女が、柱間や扉間にとって一体どれほどの存在か。桃華は肌で直接、その異質なまでの感情を悟っていた。己の腕の中で震え上がるその小さき身体に、少しでも傷が付けられようものなら、同族の命さえも簡単に奪ってしまうような、畏怖の念を抱く。

 この兄妹を結ぶのは、深く尊い絆。そして、鉄の鎖のように重く、狂気染みた愛情。

「……何があろうと、柱間様が名前様を責めることはありません」

 言いながら桃華は、胸に渦巻く暗雲が、さらに大きく広がってゆく心地がした。柱間でさえ、ああなったのだ。ならば、扉間という兄は、血生臭い戦地に遣わされた自分の妹の姿を目にした時、一体どうなってしまうのだろうか。桃華があの地を発ったとき、扉間は気を失っていた。あれからずっと、辛うじて動ける医忍が休むことなく延命措置を行なっているはずだ。仮にもし容態が安定していれば、目を覚ましている頃かもしれない。

 それを手放しで喜ぶことが出来ないのは、この腕の中にいる少女の小さな手のひらが、桃華の首根を痛く締め付けているからだろうか。

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