第八話

 合従連衡五国から滲み出た反乱勢力によるクーデターが、此度の戦の発端であった。内一国の太守は古くより千手一族と手を結んできた間柄にあり、五国が取り交わした不可侵条約の締結にも、千手が一枚噛んでいるという。
 今回起きたクーデターの要因には、諸外国からの介入の跡があった。他国からの政略的干渉、さらには武力行使により五つもの国を結ぶ条約が破られようものならば、千手が世に馳せてきた威光は大きく失墜することになる。国を落とすことよりも、最初からそれを狙って――うちは一族が謀略をめぐらせていた可能性も見えてきた。

 反乱軍の主たる勢力は、千手と長年敵対関係にあるうちは一族だ。千手にはうちは。うちはには千手。もはやこの世の習わしとも言えよう。双璧の長である千手仏間とうちはタジマの力は拮抗し、互いに大きな犠牲を払いながらも、両者の争いは際限なく続いている。彼等の祖父より以前の時代から、この世はまるで変わっていなかった。世を二分する強大な力を一つにするための戦争は、どちらかの一族の血が途絶えるまで、続いてゆくだろう。




「まことに、嘆かわしいことですなぁ」

 名前はそんな話を今しがた、村の長老の妻にあたる老巫女から聞いていた。名前の手に菓子を握らせながら、聞きたくもないことを延々と語り続けている。当主の娘だから、とか。いずれ家督を継ぐ者の妹だから、とか。そういった理由で名前に近づいてくる者は、父や兄が戦で長期に渡り家を空けている時ほど多く現れた。名前を通して、父や兄の情を買いたいのだろう。訪ねてくるのは年嵩の者ばかりで邪険に扱うわけにもいかないのだが、まだ八つの名前に対して、皆揃って卑屈なくらい頭を低くしてくるものだから、気味が悪くて仕方がなかった。
 父などは以ての外、相次ぐ戦で身も心も疲弊しているであろう兄たちに余計な心配をかけるわけにもいかず、名前はこの事を、まだ誰にも話していない。



「うちはが出てくるともあれば、おひいさまの兄上殿も無傷というわけにはゆくまいし……あぁ、おいたわしや……」

 老巫女の枯れた手が、名前の手のひらをぎゅうと握りしめた。擦り寄るように生優しく撫でられると、全身がぞわぞわと震え立つ。白く濁った目と饐えたにおいが、名前の身体を不快に取り囲んだ。憐むような表情に、慈愛の情はかけらも感じられない。
 不安を煽るようなことを言われて、慰められて、名前が心を開くわけがない。口を固く閉じたまま何も言葉を返さない名前に対しても、老巫女はめげることなく語り続けていた。誰もいない家でひとり家族の帰りを待つことは、さぞ寂しかろう辛かろう。早く嫁ぎでもして女としての役目を果たし、家族を持った方が貴女にとってはよっぽど幸せだろう。あと数年もすれば身体も成熟し、さぞや美しくなられるだろう。などと、くどくどと何度も同じ言葉を吐いてくる。このひとが言いたいのは、結局いつもそれなのだ。

 千手の女は、十四、五になる頃に、他氏族に召し出される者も少なくない。それには、婚姻による政策で勢力の安定を図る目的がある。二度、三度と婚家が変わることも別に珍しいことではない。政治の駒として扱われる女たちを哀れに思うことはせず、武力だけでは為し得ぬことを果たすべきとする思想は、古くから一族に根付いていた。悪しき風習が、今もなお続いているのだ。
 そもそも家督を継ぐのは男だと決まっていることだし、この家に柱間と扉間がいる限り、名前もいずれは家の外に出されてしまう。"当主の娘"として生まれた時点で、名前の利用価値は元より決められているようなものだった。

「戦の火種は止まずとも、おひいさまが健やかに育ち、立派な子をなすことは、一族の命運を左右することだからねぇ。うえの兄君は十六にもなりますかや。此度の戦が終われば、妻となる方を娶られても良いころやもしれませんなぁ。……そう、うちの孫娘が丁度うえさまと同じ歳の頃で……」

 ぶつぶつ、ぶつぶつ。老巫女が言い連ねる言葉を名前は全て聞き流していた。そうしなければ、腹の奥底より湧き立つ激情を、押し込めることが出来ないからだ。

 子どもの命を粗末に扱いながらも、一族の血を絶やすなと、若い男女はより多くの子孫を残すことを求められている。それは、なんと矛盾した思想だろうか。外の世を知らぬ名前の憎悪は、年を重ねるにつれて次第に一族の内部へと向けられていった。
 幼い兄たちを奪ったのは、戦だ。その戦は誰が生んだものか。憎しみの連鎖を立ち切れないのは、誰のせいか。全ての事象には必ず理由がある。戦はひとの手が起こすもの。自我を抑えられぬ大人たちは総じて醜い。血で血を洗うという考えこそが愚かだ。悪しき世の流れを断ち切ろうとする兄の行く道さえ、古い慣習に囚われて、妨害しようとする。その皺だらけ手のひらの、なんと穢らわしいことか。

「とくにうえさまは始祖の力をもって生まれた子だからねぇ……その血を引く子はさぞとくべつだろうさ。他族の血と混じることなど、決してあってはならぬことよ」

 老巫女の発する言葉のひとつひとつが、名前の心に毒を生んだ。名前にとって最も尊ぶべき存在である兄を、大人の欲や権力に塗れた汚い領域に引き摺り込んでしまうような、末恐ろしい気配。兄のことを、一族の所有物か何かだとこのひとは思っている。とてつもない嫌悪感だ。名前は、自分のことならば何と言われようと気にならない。だが、兄だけは絶対に駄目だ。穢らわしい心を纏った人間が、兄に近づくことは許されない。幼い子どもたちを利用することしか考えてこなかった大人たちに、兄を好きにさせてなるものか。

 ひび割れた唇をゆるりと弛ませて、老女がひた嗤う。名前は押し黙ったまま、自分の足元へ視線を落とした。
 湿った土埃がどよりと地面に淀み、ぬるい風が波のように家の中へと吹き込んでくる。午後がなだからに過ぎて去って、引き戸の溝にわだかまっていた日なたが上がり框を乗り越えるまで、薄らと縦に広がっていた。もうじき、橙色の夕陽が落ちるころだろう。
 伸びてくる老巫女の影に呑まれてしまう前に、名前は、握られた手を強い力で振り払った。その勢いに驚いた老女は、引き戸のへりに尻餅をつく。額に刻まれた皺を色濃くして、濁った瞳が名前の顔をぎんと睨み上げた。先ほどの、媚びるような眼差しから一変。己に無礼を働いた名前を、許すまじと見咎める視線が突き刺さる。しかし、名前は一切臆さなかった。

「兄さまの心眼は、あなたよりずっと先を見据えている」

 真に尊い、ひとつ先の夢。その道筋は、何者にも侵させてはならない。名前にできる唯一は、二人の兄の心を固く信じ護り続けること。兄たちの時代は、きっともう間もなく訪れる。長老や老巫女の言葉など、いずれ風化してゆくものに過ぎない。そんなものたちに向ける情など、名前の中にありはしなかった。

 名前はくるりと踵を返し、地面に座り込んだままの老巫女へ背を向ける。

「その白い瞳には、きっと見えないものなのでしょう」

 誰に頼まれたわけでもなく、まだ幼い娘だからと侮って、名前に付け入ろうとした醜く哀れな大人たち。兄たちの深い愛情によって育まれた名前の心が、そう易々と攫えるはずがない。

 家の中へ戻る名前の背に、恐ろしく醜い言葉の数々が浴びせられた。僅か八歳の娘に言い負かされたことが、よっぽど気に障ったのだろう。当主様がこのことを知られたら、きっとただではすまないだろう。憶えておくが良い。自分が名前に言い散らかした言葉の数々を善と信じて疑わない老巫女が、後ろでずっとやかましく吠えている。

 善人ぶって近づいてきたとしても、名前にとっては、毒にしかならぬ存在だ。身体中に纏わり付いた臭気をすべて取り払うべく、名前は家の一番奥の部屋へと閉じ籠った。兄と名前が幼い頃に使っていた寝所だ。大きく息を吸い込めば、ひとたび井草の濃い香りが鼻先を通って胸の中に落ちていく。ここにいると兄弟のにおいを思い出して、荒んだ心が瞬く間に浄化していく気がするのだ。

 でも、今日ばかりは、なかなか心が落ち着かなかった。戦に出向く兄を最後に見送ったあの玄関が、穢れに塗れた記憶で埋め尽くされてゆく。名前の中に残る大切な記憶でさえ、土足で踏み荒らしていく大人たちが、心底嫌いだ。

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