第七話

 
 指の間をはらりと流れてゆく黒髪は、自分のものより固く、少し乾いている。四年前と比べて随分と伸びた柱間の髪は、肩甲骨の下あたりまでの長さがあった。兄が髪を伸ばし始めたのは、名前たちの兄弟のひとり、瓦間が亡くなった直後からだと記憶している。過去に一度、兄に理由を聞いてみたときは、この方が粋だろう? と何でもないように笑っていた。その時は素直にその言葉を受け入れたのだが、今となっては、何だかはぐらかされてしまったように思う。


 髪を結ってほしいと頼まれたのは、つい先程のことだ。干していた兵糧丸の具合を見ていた名前のもとに、気の抜けた笑みを浮かべた柱間がひょっこりとやって来た。
 もう間もなく出陣の頃合いだというのに、このひとがこんなところで油を売っていて良いわけがない。父も扉間も早朝より家を出て行ったきり、一度も帰って来ていなかった。ろくに見送りも出来ぬまま、黙って行ってしまったのだ。柱間でさえ同じように出て行って、名前は大層落ち込んでいたというのに、今頃になって何故一人で戻ってきたのか。何でどうしてと慌てる名前とは対照的に、柱間はまるで焦る様子もなく、随分のんびりした様子で名前の作った兵糧丸のにおいをくんくんと嗅いでいた。

 此度の戦にはあのうちは一族が出てくるとあって、大きな戦となるのは目に見えていた。みな気が立っていて表情も険しく、どこか落ち着かない様子でいる。しかし、そんな中でも柱間は、まるでいつもと変わらない様子で名前に笑顔を向けてくれた。柱間のそばにいると、外の空気に充てられて緊張していた心が、固く結んだ糸を解くようにするすると和らいでいく。こんな時でも、名前は柱間の優しさに甘やかされていた。柱間自身は、とくに意図してやっていることでもないのだろう。きっとそこにいるだけで、人の心さえも変えてしまうような、そんな不思議な力をこの兄は持っている。




 名前は井戸に走って手を洗ったあと、名前の部屋で待つ柱間のもとへと急ぎ向かった。部屋の中央で胡座をかく柱間の背に膝立ちになり、櫛で何度か髪を梳かす。あまりのんびりとしている時間はないので、手つきが少し雑になってしまった。櫛に髪が引っかかるたび痛い痛いと嘆く兄には申し訳なく思うものの、いちいち対応している余裕などなかった。
 髪紐はどうするかと聞けば、名前がいつも使っているものが良いと言われた。しっかりとした髪紐なんて、名前はいくつも持っていない。名前は仕方なく自分の髪を解き、その紐で柱間の髪を結うことにした。

「……もっとまえから言ってくれたら、もう少しいいものを編んだのに」
「おお、そうか? じゃあ次は頼むとしよう」

 飾り気のない朱色の髪紐は、柱間の髪にもよく馴染んだ。総髪にすると、柱間の凛々しい瞳と眉がより際立つ。名前は身内の贔屓目なしに、この兄は真に美しいひとだなあと感心して、少しの間見惚れていた。この方が粋だろう? と笑っていた兄の言葉も、あながち間違いではないのかもしれない。
 箪笥から、母の形見として譲り受けた手鏡を取り出して仕上がりを確認してもらうと、柱間は顎に手をあてて、うんうんと唸り出した。――あまり、良くない反応だ。よく似合っていると思うのに、本人は気に入らないのだろうか。晒された頸をしきりに手のひらで撫でている。そうは言っても、悠長に髪を結い直している時間はない。そろそろ一族の誰かが、柱間を探しにくる頃合いかもしれなかった。

「綺麗に結わえてくれているが……首元がスースーして、あまり落ち着かんな……」
「…… せ、せっかく結ったのに」
「いや、まあでも、今回はこれでいくぞ」

 何ともマイペースな発言に翻弄されるものの、結局はこれで良かったらしい。名前はほっと息を吐いた。後ろで馬の尻尾のように揺れる毛束が面白いのか、左右にぶんぶんと首をふっている。そんな兄の様子をくすくすと笑いながら眺めていると、ふと動きを止めた柱間が、名前の頭をぽん、ぽんと手のひらで撫でた。

「……名前には、今度もっと綺麗な髪紐を買ってやるからな」

 ありがとう、と朗らかな笑みを浮かべる柱間に、名前は少し目を見開いて、ぐっと押し黙った。柱間は、こうやっていつも名前を安心させる言葉をかけてくれる。これから戦へ出向くというのに、荒んだ感情ひとつ見せず、暖かいままの兄でいてくれる。
 柱間が名前にかけた言葉は、未来に繋がる約束だ。必ず無事で帰ってくると、その言葉が示してくれる。思いもよらぬところで柱間の愛情に触れて、押し込めていた感情が、とぷりと溢れ出してしまった。

「……どうして、柱間兄さまは、帰ってきてくれたの」

 名前は柱間の前で膝を折り、膝上に置いた手鏡を見つめていた。そこに映る自分は、眉がすっかり下がり、今にも泣き出しそうな表情をしている。戦場へ向かう兄を送り出すには、あまりに情けない。心を強くもたなくてはと思うのに、この不安は少したりとも消えてくれない。
 年を重ねるに連れて、名前の不安はますます大きくなる一方だった。この頭は戦の恐ろしさを、兄の血のにおいを、死の最終性を、もう十分に理解している。柱間が、扉間が、いくら優れた忍だからといって、名前の心が穏やかになるはずがない。見送るのは、いつだって怖いのだ。名前は、愛しい兄弟を失う恐怖といつも隣り合わせで生きている。

「……見送りたくないといってしまったから、バチがあたったのかと」

 早朝。微かな足音に目が覚めて、慌てて部屋を出た瞬間、名前は玄関戸の閉まる音を聞いた。家の中にほんの少しだけ入ってきた狼煙のにおいで、名前はやっと気がついた。慌てて玄関に走り、その勢いのまま戸を開けようとしたが、ぴたり、と手が止まってしまった。
 言霊には、恐ろしい力がある。心の中に秘めていた感情を柱間に吐露したのを思い出して、名前は顔を青褪めた。あの言葉を、柱間はどう感じたのだろう。あの時は自分のことばかり話してしまい、柱間の心を知ることは出来なかった。

 ずっと、大切に育てられてきた自覚があった。父や母の愛情を知らない名前にとっては、兄たちが親代わりのようなものだ。柱間と扉間が、一体どんな思いで名前をこの家に置いていくのか。名前がこんなに辛いのだから、二人が辛くないわけがない。名前が吐いた言葉で、柱間の心を抉ってしまったかもしれないのに。

 自分はこれからどう在るべきか。そんなの、決まっていることだ。兄たちが望むように生きること。名前が出来ることなんて、所詮それしかない。守られているだけの身で、一体なにを意見しようものか。何も知らぬこと、何も出来ぬことは、心底愚かしいと思う。それでも、そう在ることで兄たちが救われるのであれば、名前にとっての最善は、決まっているようなものだ。
 
「……名前は兄さまたちのいうことを、これからはちゃんと、守って、」
「名前」
 
 柱間が、名前の声を遮った。伏せていた顔を上げると、そこには、眉を顰め、傷ついた表情をする柱間の姿があった。

「俺は、お前が心を打ち明けてくれたことを、本当に嬉しく思った」

 柱間は名前の両肩に手を乗せて、優しく語りかけるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「今は目に見えずとも、きっと変わったものがある。お前の心がそうであったように、この世に不変なものはない」

 柱間の言葉が、名前の胸にじんと響いた。柱間に心根を打ち明けて、扉間の心根を知ることが出来ても、何も変えることが出来なかったと悔やみ続けていた心が、あたたかいものに満たされて、じわりと柔らかく溶けてゆく。

「今日は駄目でも、明日は何か変わるかもしれん。……この世のあらゆる物事は誰も予期しないところで、意外な連鎖反応を起こしたりするものだ」

 何の根拠も確実性もない。そんな言葉であっても、柱間が言うことは、名前にとって今は何よりも信じられるものだった。慈愛に満ちた、意志の強い瞳。柱間は、何よりも己自身を信じている。その強さがあるからこそ、ひとは、この兄を慕いたいと思うのだろう。

「だからこれも。……今日は何かが変わればいいっていう、いわば願掛けのようなものぞ」

 にっ、と歯を見せて笑いながら、柱間は手を後ろに回し、背中で揺れる毛束を撫でた。名前はごくり、と唾を呑み込み、溢れそうになる涙を必死で堪えた。言葉でも、行動でも、柱間は名前の背を支えてくれる。自分で歩く努力をしても良いのだと、諦める必要はないと、名前の心を知った上で諭してくれる。きっと、柱間なら。夢が夢で終わらないことを願い続けている兄ならば、この世だって変えて見せてしまうのだろう。

 この世に不変なものはない。そう言い切った兄の言葉を――名前はこのあと、思いもよらぬ形で、知ることになるのだ。

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