第六話

 自分の中で何かが変わったはずなのに、結局、現状は何も変えられなかった。兄を守るために何かをしたかったはずなのに、その兄が何もしてくれるなと、願い乞うてきた。ならば自分は、自分の心は、どのように昇華すれば良いのだろうか。
 先ずは雨に濡れて冷えた身体を温めろと、扉間に風呂場へ放り投げられてから、名前はそればかりを考えていた。

 扉間を探しに外へ出るより前に、名前は柱間に泣き縋り、自分がこれからどう在りたいかを必死で説いた。柱間はその間ひとことも口を挟まず、名前の声を聞いてくれた。自分にも忍としての素質や力があるのなら、どうかそれを育む努力がしたいと。そのために修行をつけて欲しいと、柱間に願った。
 狡いことをした自覚はある。柱間は名前の願いを何でも聞いてやると、過去に誓った身であった。そんな兄の優しさに甘え、利用した。秘めた心を打ち明けるのは、どうしても、柱間でなくてはならなかった。
 だが、それが甘かった。柱間は優しい兄であったが、決して単純な男ではない。名前の心根を知り、その時点では肯定も否定もしなかった。ただ、そうか、と頷き、慈しむような眼差しで名前のことを見ていた。そして、"扉間にもそう話せ"と、頭を柔く撫でたのだ。 

 扉間は、名前が忍になることを望んではいない。それはもはや明らかだ。嘘まで吐いて、否定したのだから。しかし、それこそが扉間の優しさなのだと、もう痛いほどに思い知らされている。
 幼くして死んでいった兄弟を想い、打ち拉がれる扉間の姿に、名前は言葉を失った。兄弟の死んだ日も、扉間は家族の前ですら、涙を流さなかった。そんな兄の姿を横目で見ながら、扉間はまことに心根の強いひとなのだと、勝手にそう思っていた。
 でも、本質は違ったのだ。治すべきは肩の傷ではない。兄が本当に痛かったのは、その心のほうだ。――心の痛みは、医療忍術では治せない。扉間の痛みを感じたとき、あの少年の言葉が頭で響いた。ずっとひとりで、傷ついた心を隠していた。

 扉間は、この世を見通す広い視野を持っている。名前よりもずっと多くの事が見えている。自分に出来ること、出来ないことを正しく判断し、最善を尽くそうとする。その扉間が出した答えが、これだ。
 名前が忍として生きていくことを望まない。名前の意思より何より、兄たちに守られて生きていくことを、望んでいる。何もしてくれるな、俺の傷を治すなと。震えを帯びた声が、身体が、頭に焼き付いて離れない。
 兄の想いを踏みにじってまで、名前は自分の思いを告げることなど、出来なかった。












「今朝、名前が忍になりたいと俺に言ってきた」

 事も無しに、柱間がそんなことを宣うものだから、扉間は額にびきりと青筋を立てた。それを、そのたった一言を名前の口から聞かぬために、扉間がどれほど苦悩し、葛藤したか。
 自室で刀の手入れをしていた扉間は、声すらかけず襖を開いて部屋に入ってきた柱間を、ぎん、と睨みあげた。

「兄者は馬鹿なのか」

 冷えきった視線を投げる扉間とは対照的に、柱間は緩んだ笑みを浮かべながら、扉間の目の前でどっかりと胡座をかいた。

「まあ、そうピリピリするな。少し話そう」

 邪魔をするなと遇うことも考えたが、目先にある柱間の目色が真剣味を帯びていたので、扉間は少し考えてから、はぁと盛大な溜息を吐いた。
 この兄は他人に甘すぎるきらいがあるが、妹に対してはもはや度を超えている。妹に死ねと言われたら迷わず笑顔で死ぬだろう、というくらいには。まあそんなこと、あの妹は冗談でも言わぬだろうが。

 扉間と共に帰ってきた名前の様子を見て、恐らく即座に理解したのだろう。嗚呼、思うようにはいかなかったと。最も、それも重々承知の上で名前を自分のところへ送り出したのだろうが。
 結局のところ柱間という兄は、名前のためなら何ら迷わず行動出来る男なのだ。現に名前が扉間に言わせてもらえなかったことを、もう本人に告げてしまっている。
 
「名前はお前にも話したか?」
「……やはり兄者の差し金か」
「俺に話したことを扉間にも話すといいと言った。それだけぞ」

 名前の行動は兎も角として、話の内容については、柱間が名前を唆したとは思えなかった。柱間とて、名前が忍になることを望んではいない。ただ、扉間と決定的に違っているのは、柱間が自分の望みより何より、名前の意思を尊重するという点においてだ。
 自分より先に、それを柱間に打ち明けたこと。柱間になら何を言っても大丈夫なのだと、あの妹はもう理解していると思った方が良い。利用した、といえば聞こえは悪いが、物事の分別がつくようになったのだ。
 扉間の嘘にも気がついて、何でも許してくれる優しい方の兄に、真実を確かめようとしたこと。名前の言動や行動を辿り、見えてきたものに、腹の奥底がひどく疼く。
 己を頼り、無垢な瞳で見上げてくる幼い妹の影が、扉間の脳裏に過ぎる。今その妹は、扉間の導きに背き、己の足で歩こうとしている。


 


「……見送る辛さは、俺たちとてよく知っている。そうだろう、扉間」

 みおくりたくない、と。泣いて嘆いた名前の姿を、扉間は知らない。柱間は、扉間に名前の心根を理解するべきだと説いた。守られているのはその身体だけで、名前の心はずっと前から傷ついている。無力な自分を嘆いて、自分を責めている。それを見過ごしてはならぬ、と。
 頑固な弟の心を変えるのは、妹だけでは無理だった。ならば扉間の兄である自分が手を貸してやらねばと、柱間は言葉を尽くす。

「名前はお前を愛し、守りたいからこそ、お前の想いを受け止めきれぬのだ」

 扉間の元へ向かった名前は、恐らく何も言えなかったのだろう。名前はそこで、扉間の何かを知った。根深いところにある、扉間の心を。先に知ってしまったから、真逆のことをしようとしている自分の想いを、言い出せなくなったのだ。

「どうして、名前の声を聞いてやらなかった」

 責めるような物言いだが、今回はそれも致し方ない。名前は何も知らぬまま、幸せであって欲しいというのが、扉間の願いだ。だが、それはもはや叶わぬことだ。移ろう人の心は、他の誰にも見えはしない。柱間とて、名前自らその心根を打ち明けてくれるまで、真に名前の想いを知ることなど出来なかった。
 心根を打ち明けること。――はらわたを、見せ合うこと。それが出来ないから、人々は争う。名前と扉間も、互いを想う気持ちは同じであるのに、心を知らぬから擦れ違う。その声を聞かぬから、わかってやれない。

「名前とちゃんと向き合ってやれ、扉間」

 扉間は、柱間の言葉を黙って聞いていた。丁子油を塗り込んでいた手さえ止めて、目線を下方に向けている。
 柱間は、真っ直ぐに扉間を見据えていた。そして、扉間の言葉を待っている。――名前と扉間。二人は柱間にとって等しく愛情を注ぐべき存在であり、秤にかけることは出来なかった。どちらの言葉も、どちらの想いも、尊重してやりたい。だからこそ、扉間に名前の言葉を聞いて欲しかった。噛み合わない、一方的な愛や献身は、いずれどこかのタイミングで傾きが生じて、崩れてしまう。
 これ以上、二人の想いが拗れて欲しくなかった。互いの想いを聞いた柱間だからこそ、わかることがある。柱間の言葉を、扉間がどう呑み込むか。

「……俺も名前を愛しているからこそ、譲れぬものがあるのだ、兄者」

 ゆらりと顔を上げた扉間の表情を見て、柱間は、その意思をはっきりと読み取った。

「俺の心が変わるとしたら……この世が変わる、その時だ」

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