第四話

 昨晩名前の身体を部屋まで運んだのは、横で一緒に眠っていた柱間ではなく、扉間だったらしい。部屋の前で知らぬ間に眠っていた挙句、怪我をしている兄に運ばせてしまうなんて、なんて不甲斐ないことだ。柱間から話を聞いた名前は、朝からひどく落ち込んだ。
 その扉間は、早朝、どこかへ出かけてしまったようだ。柱間も行き先は聞いていないという。夕方には腹も減って帰ってくるだろうという何の根拠もない柱間の言葉を聞いてから、名前は朝餉の支度をするために布団から抜け出そうとした――のだが、柱間の腕がするりと名前の腹に絡みつき、それを阻止した。

「……柱間兄さま?」

 首だけで振り返り、まだ布団に寝そべったままの柱間と目を合わせた。眠たそうな顔をしているのだろうと思いきや、ぱちり、とはっきり目を開いて、名前のことを見上げている。

「目が真っ赤ぞ……かわいそうに」

 指摘されて、どくん、と心臓が震えた。柱間の顔が悲痛に歪む。懐かしい夢を見た後、その胸の中で泣いていたことを、もしや気付かれていたのだろうか。否、それ以前に、名前は扉間の部屋の前でも泣いていたから、そのことだろうか。
 どちらにせよ、柱間は自分のことを気にかけて、よく見てくれている。兄は昔と何も変わらず、その胸の中に暖かく名前を迎えてくれた。柱間の優しさに、名前がどれだけ救われているか。

 最近、戦の前になると父は兄たちを連れ立って出て行くことが多くなった。一族の要として第一線で刀を奮い、身も心も立派な男になってゆく兄たちは、いずれこの一族の支柱となるべき大切な存在だ。家督を継ぐ者として、学ぶべきことも、やるべきことも多い。
 年を追うごとに争いの火種は止むどころか、激化し続けている。やっと家に帰ってきたと思ったら、何日かしてまたすぐに居なくなる。ずっと、その繰り返しだ。気の休まる暇もない。

 兄がくれる温もりを、次またいつ失うかもわからない。名前を守ってくれる大きな手は、もう自分一人のものではなく、一族皆の未来を担う特別なものへと成り代わっている。甘えてばかりではいられないことも、わかっている。

「……でも、柱間兄さまがそばにいてくれたから、きょうはよく寝れたきがする」

 ――ただ、今は、今だけは。この兄の温もりは名前だけのものだ。心配そうに見上げてくる兄の顔が愛おしくて、名前は腹に絡んできたその腕に、手のひらで柔らかく触れる。ありがとう、と名前が微笑むと、柱間は目を丸くさせた。少し照れたような顔をした後で、腕に触れた名前の手に、己の指を絡めるようにして、その位置を変える。

「……名前の手は、まだまだ小さいな」

 ぎゅ、と握り込む手は、名前の手のひらを簡単に呑み込んだ。ごつごつと骨張った兄の手は、皮が硬くて豆がいくつも在る。幾度も刀を握ってきた、男の手だ。
 名前は、優しい兄のかたちしか知らない。こんなに暖かい兄の手も、ひとを殺めたことがあるのだ。やらねば、やられる。そんな世界にいるのだから。やりたくなくとも、やらねばならぬ。

 柱間は何度、その心を痛めたのだろう。虫も殺せぬようなまろい瞳で、屈託のない笑みを浮かべる兄の顔が、鬼の面を被る瞬間がある。
 その時ふと、あのうちはの少年のことを思い出した。名前の首を締めていた時の、憎しみを燃やし尽くした哀しい瞳。そんな瞳を、この兄もするのだろうか。自分は、柱間や扉間のごく一面しか知らぬまま、この先ずっと甘やかされて生きていくのであろうか。自分だけがぬくぬくと、生暖かい場所で。何も知らず、何も出来ぬまま。
――それはなんて、愚かしいことだ。

「……柱間兄さま」
「なんぞ、名前」
「名前は本当に、忍にはなれないの?」

 握られた手はそのまま。名前は身体ごと、柱間の方を向いた。
 名前はもう、無垢なだけの子どもじゃなかった。あの少年と出会った瞬間から、憎しみという痛みの苦しさを知っている。首に食い込む爪の感触も、呼吸を奪われる際の微睡みも、弟を失った兄の激情も。忘れてしまっていたことが蘇り、名前の心を塗り替えていく。
 その問いをすれば、兄が困った顔をするのはわかっていた。でも、止まらなかった。

 お前は忍には向いていない。扉間が名前に告げたことには、何の根拠も示されていない。忍として恵まれた才をもつ柱間と扉間。同じ親から産まれて、どうして名前だけがその道を外れようか。名前は柱間と同じ再生術をその身体に宿している。柱間の傷を治すことだって出来た。この目で確かに見た事実がある。
 自分も兄たちと同じように修行をすれば、いつかその才を発揮できるようになるのではないか。口には出さずとも、名前はずっとそのような想いを心に秘めていた。なにも力を持たずして産まれてきたわけではない。力を殺したまま、のうのうと生きているから、今この手は、兄の温もりを感じることしか出来ないのだ。

「扉間兄さまのいうことは、ぜんぶ、本当のこと?」

 扉間は、いつも名前に正しい知識を与えてくれた。教養深く、理知に富み、一歩後ろから物事を冷静に捉えている。扉間の言うことを聞いていれば、名前が間違うことはない。導こうとする兄の手を握り返し、そう信じて生きてきた。
 名前は扉間の姿をずっと見ていた。鋭い赤の瞳に宿る毒々しいまでの優しさを、この身で一心に受けてきた。だからこそ、名前は知る必要があった。扉間の心根を。誰よりも深くその愛を感じてきたからこそ、その意味を、理解したかった。

「……扉間兄さまは、どうして名前に嘘をつくの」

 聡い人間は嘘を巧みに操り、真実を容易くねじ曲げることができる。その嘘は必ずしも悪ではない。善と悪を見抜く目があるものこそが、その者を真に理解できる。

「柱間兄さまなら、おしえて、くれるよね……っ」

 扉間が吐いた嘘は、名前を傷つけるためのものではないと理解している。でも、その理由がまるでわからなかった。名前にとって一番の幸せは、兄とともに在ること。この先二人のそばにいるためには、名前は戦う術を学ぶ必要があった。二人を守る術を身につける必要があった。きっとそれが出来るはずなのに、どうして何もさせてくれないのか。その道を、選ばせてすらもらえないのか。

「なまえは、また、兄さまたちが」
「……名前、」
「兄さまたちが、また、知らないうちにとおくにいったら」

 名前の手のひらを包み込む柱間の手の甲に、涙の粒が絶え間なく落ちていく。

「とびらま兄さまを、はしらま兄さまを、死なせたく、ない、みおくりたくなんか、ない、のに」

 名前の生きる世界は、これから先もずっと、兄たちと同じもので在りたい。隣に立つことは出来ずとも、二人の痛みを和らげる手段があるのなら、名前はそれを学びたい。

 扉間の血の匂いが、こびりついて離れないのだ。治り切っていない傷を引きずって、どこかへ行ってしまった兄。顔すらみせず、声すら聞けず。また、死地へ向かう背中を見送ることしか出来なくなる。そんなのはもう、嫌だった。

「はしらま兄さま、おねがいです」

 柱間の手ごと自分の胸元に両手を手繰り寄せて、祈りの形を取った。視界は濡れて、兄がどんな顔をしているのかもわからない。ただ、組んだ手の甲に額を擦り付けて、何度も何度も、同じ言葉で願い乞うた。

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