第二話


「顔くらい、見せてやってもよかったろうに」

 みしり、と床板が軋む音。行先を塞ぐように立つ兄は、しかめ面で腕を組んだまま、扉間の腕の中で寝息を立てる名前を見下ろした。

 名前は、扉間の部屋の前で正座をしたまま眠ってしまっていた。長い黒髪をゆらゆらと揺らして、泣き腫らした目蓋を重たそうに閉じて。よっぽど疲れていたのだろう。名前は精神的にも肉体的にも、まだまだ、幼い子どもだ。扉間や柱間が名前と同じ年齢の頃にはとっくに戦に出ていたものだが、この妹は戦どころか、外の世界のこともよく知らない。育ってきた環境も、見てきたものも、何もかもが違う。
 名前が今よりもっと幼い時は、世間知らずなところを不安視することもあった。無関心から過保護に変わった父の目を避けて、外へと連れて行ってやることもあった。しかし、今となってはどうだ。この家から外に出ると、名前の成長を見守り育むものより、その身を危険に晒す物事の方が圧倒的に多くある。

 名前は、このまま何も知らないで生きていく方が、幸せなのではないだろうか。何度も傷つき傷つけられて、人の死を見てきたからこそ、そんな考えが過ぎってしまう。名前の人生は名前だけのものだ。兄が決めて良いものではない。しかし、きっとこの妹は、兄の導くままにその歩みを向けるのだろう。柱間と二人、ずっとそうして、育ててきたのだから。


「兄者、そこをどけ。名前を部屋に運ぶ」
「……名前は、お前と話がしたいと」
「話すことは何もない」


 柱間は名前に決して嘘をつかない。二人が喧嘩をした――あの、うちはマダラと名前の接触があってからは、特にそうだった。マダラには何もされなかった、怪我もしなかった、と名前がいくら柱間を励ましても、柱間は己を責めることをやめなかった。もう二度と名前を蔑ろにしたりしない、言うことは何でも聞いてやると、勝手に誓いを立てたくらいだ。きっと、名前に聞かれて扉間の怪我のことも話したのだろう。いつだって、名前の欲しいものを与えてやれるのはこの兄だ。昔から、そういう役目だったから。

 扉間は名前が成長してゆくにつれて、嘘を吐くことが多くなった。幼い頃と何も変わらず、扉間の答えを望む名前に、扉間は平気で嘘を吐いた。名前がなんでも知りたがるのを利用したのだ。危ない橋を渡らないように、変な気を起こさないように。名前に忍としての才はないと告げたときの、あの表情が今でも胸を抉る。
 妹を守りたいという想いは、柱間とて同じだ。しかし、二人が歳を重ねて物を知り、世界を知ることで、その手段は大きく異なってくる。柱間にはあって、自分にないもの。それが見えた瞬間から、扉間は考え方を改めたのだ。

「……いったい何を考えている、扉間。お前らしくもない」

 酷く冷めた表情でいる扉間に対して、柱間は抑揚のない声で問うた。そこには静かな怒りと呆れが含まれており、扉間はぴくりと肩を揺らす。扉間の名前に対する態度が、柱間にはどうも不服らしい。
 ――らしくない。その言葉が、扉間には引っ掛かった。それは何を指しての言葉か。己は冷静であるからこそ、この方法をとっているのだ。感情を押し殺し、最善を尽くしている。知りたいとせがむ名前の手を振り解き、何も見えぬよう目隠しをする。


「兄者は、何もわかっておらんのだ」


 びしり、と空気が凍った。扉間の声もまた、冷ややかな怒気を孕んでいた。目の前に立つ兄に構わず、名前の部屋へと足を進めようとする。
 これ以上ここで言い合えば、名前が気配に気づくかもしれない。名前にとって、二人の兄は唯一だ。両天秤にかけるようなものではない。そんな兄たちがぶつかり合う姿など、見たくはないだろう。柱間は何か言おうとしたが、それより先に扉間の意思を汲み取ったのか、大人しく身体を横に避けた。
 



 部屋に着き、扉間は布団に名前の身体をそっと横たえた。年齢の割にほっそりとした身体と、昔と変わらぬ小さな手。妹がこのまま健やかに成長してゆけるよう、そばで見守りたくとも、この戦乱の世ではそれすら出来ない。いつ死ぬかもわからない、こんな世では。
 広い家にたったひとりきり。何度、ここで眠ったのだろう。今日は何をしてすごしていたのだろう。前のように、腐りかけた食材など食べてはいないだろうか。寂しい思いをさせて、すまないと思っている。でも、そんな話すらしてやれない。

 規則正しい寝息を立てる妹の寝顔を眺めて、まるい額を手のひらで数回撫でた。兄と同じ艶やかな黒髪が、布団の上で蝶の羽のように広がっている。自分と同じ色をした瞳は、硬く閉じられたまま。

「名前、」

 口を開き、告げようとした言葉を、結局は腹に飲み込んだ。扉間は足音を消し、物音一つ立てることなく、名前の部屋を後にした。






 柱間は、襖のそばで扉間を待っていた。むっと口を歪めて、部屋から出てきた扉間を見遣る。まだ話は終わってない、とでも言いたげな顔だったが、扉間の表情を見て、はっと目を見開いた。扉間は兄の視線を受けて、少し間を置いてから、どっと肩を落とした。盛大な溜息を吐き、居間に行くぞ、と親指で合図をする。

「……ふっかけてきたのはお前ぞ」
「黙れ、兄者」

 幼い時から、何度も二人で話し合ってきた。この妹は、先に死んでしまった弟たちのようにはさせない。親が守ってくれないのなら、兄弟二人で守ってやればいい。
 扉間は、柱間に劣等感こそ抱くことはあっても、何より信頼のおける者は、兄というたったひとりの存在しかいなかった。そしてそれは兄である柱間も、同じなのだ。


 長い間戦場にいて張り詰めていた糸が、するすると弛んでゆく。眠る妹の顔を見て、その体温に触れた途端、扉間は涙が溢れそうになった。ここが自分のあるべき場所。ひとを傷つけて殺めて、脆く消えそうになっていた愛情という名の灯火が、また、息を吹き返した気がした。

「……名前のことで、気になることがある」

 どうしても、失いたくない。だからこそ、簡単に触れてはいけない。知られてはならない。扉間はいつも慎重だった。ふと気がついたことがあっても、己の中だけでしっかりと噛み込んで納得のいく答えにたどり着いてから、それを口にする。

 そのタイミングは今だった。扉間の心根を心底理解できるものは、やはり後にも先にも、この兄しかいない。

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