第一話

 人よりも"感じやすい"というのは、おおよそ悪い面の方が際立つのではないかと名前は思った。右手には猪肉、左手には白菜。そのどちらも家からほんの少し離れた所に建つ氷室から取り出してきたものであったが、ツンと鼻をつくにおいがした。
 春を超えて梅雨がくると、食材の痛みも自然と早くなる。それが腐っているかいないか。判断するための嗅覚が、名前には備わり過ぎていた。少しの違和感にすら過敏に反応してしまい、逆に判断が鈍ってしまう。きっと、普通の人間であれば何の違和感もない程度のもので、火を通しさえすれば問題はないはずなのだが、名前はそれを、散々迷った挙句、畑に放り投げてしまった。

 自分が食べる分には問題ない。腹に毒が入ったとて、少し経つと治ってしまうから。もう何度も試したからわかっている。しかし、人に食べてもらうものとなったら話は別だ。男盛りの兄が二人。そして父。三人の男の胃袋を任されている身としては、どんな場面でも慎重にならざるを得ない。
 名前は腹を壊しても平気だからと腐りかけの食材をひとりで消費していると、それに気づいた扉間から相当なお叱りを受けたので、その日からは処分することにしている。この時代、貴重な食料を廃棄することはそれ相応の覚悟が必要なのだが、背に腹は変えられなかった。

 それにここ最近は戦続きで、三人ともが家を空けていることが殆どだ。名前一人分の食材だけが消費されていくのみで、使いきれなかったものは、捨ててしまうしかなかった。



 今年で十六となる長男、柱間は、常に第一線で刀を奮っているという。名前が手を伸ばせば頭に届くほどだった身長も、今やぐんぐんと伸びて、八歳の名前と並べば大人と子どもくらいの差が生まれていた。扉間の方は、威圧感のある仏頂面がすっかり板についてきて、声もうんと低くなった。男の人は、何だか別人みたいに変わるものだなあと、名前は兄たちの成長を一番近くで見守っていた。

 寂しい、と思うことはままある。だが、名前も世の常というものがわかる年齢になっていた。兄たちは、戦わねばならぬのだ。殺すためではない。生きるために、戦っている。一族を守るために、妹である自分を守るために、今も重い刀を奮っている。そう思うと、寂しいなんてめそめそ言っている場合ではなかった。

 名前はただ、待っている。待つことしか出来ぬ自分の存在を、己の帰るべき場所として尊んでくれる、兄たちのことを。
 祈りは毎日捧げた。幼くして亡くなった二人の兄の墓前に立ち、今を生きる二人の兄の無事を願って。己を守る手段しか持たぬこの小さき身体が、いつか、死地へ出向く兄たちの盾となることを願って。名前の心は、四年前のあの日から何も変わらず、未だここにある。








 このにおいを嗅いだのは何度目か。名前はぐっと眉を潜めて、そのにおいの元を辿った。人のにおいというのは、他のどの生物や無機物よりも強く現れる。その"人"の中で最も強いのが、体液のにおいだ。その場所に近づくにつれて、名前が最も忌避するにおいが濃くなっていく。
 名前が井戸へ水汲みに行っている間に、兄たちが家に帰ってきたことはわかっていた。折角汲んだ水を溢さぬように注意を払いながら、早足でかけていく。三人のにおいがする、皆生きている。がしかし、その目で無事を確かめるまでは気が鎮まらない。また、まただ。またあの人が怪我をしたのだ。三人の中で最も気配が薄いのは、名前がそれに気がつくのをわかっていて、わざと接触を避けようとしているからだ。――扉間兄さまは。


「……扉間兄さま、どうして部屋に入れてくれないの」


 名前は二番目の兄、扉間の自室の前で立ち尽くしていた。声を掛けても、名を呼んでも、うんともすんとも言ってくれない。いつもなら二、三度声をかけて反応がなければ大人しく部屋に帰るのだが、今日だけは粘った。戦の直後でいくら疲労しているとはいえ、顔も見せてくれぬまま部屋に閉じ籠ってしまう兄に、とうとう痺れを切らしたのだ。
 血のにおいが鼻をつく。扉間が怪我をしていることはわかっていた。名前の出迎えを唯一受けてくれた柱間に、いの一番にそのことをたずねた。大した怪我ではないと柱間は言っていたが、血のにおいがするということは、傷口はまだ塞がっていないのだろう。
 名前が扉間に会いたがるのを、柱間は止めなかった。あいつは頑固なところがあるからな、と柱間は苦笑したが、それは名前も同じだ。来るな、部屋に戻れ、と言われても。返事すらくれなくなったとしても、名前は決して諦めなかった。

「扉間兄さま……その、まだ血が、でてるんでしょう」

 名前なら、治せるとおもう。そう、硬く閉ざされた襖に向かって言って、名前は顔を伏せた。話さなくていいから、どうか傷だけでも診させて欲しいと懇願した。もう幾度となく繰り返されたやり取りだが、扉間が襖を開けてくれたことは一度もない。
 命に別状はないと言われても、名前は兄から血のにおいがするたびに、心が苦しかった。扉間ばかりが怪我をして帰ってくるのは、その身体に、名前や柱間のような力が備わっていないからだ。名前や柱間は、印を使わずとも自己を治癒することが出来る。でも、扉間はどうやら、そうではないらしい。

 習得までに莫大な時間と緻密なチャクラコントロールが必要となる医療忍術は、基本とされる掌仙術でさえ、流し込むチャクラの量を見誤ると患者に昏倒されしまうレベルで扱いが難しい。故に扱える忍はごく僅かだ。戦場においては、致命傷を負った忍にこそ優先されて治療が施される。よって、時間の経過とともに自然と治癒されていく程度の怪我であれば、応急処置程度で済ますことの方がまず多い。深い傷を負ったとて、皆がその都度まともな治療を受けられるほど、生優しい世ではないのだ。


 扉間は、その兄と同様に身体能力が高く、加えて頭もよく切れる優秀な忍であったが、経験値という点ではまだまだ若かった。怪我を負わずして戦うことなど簡単なことではないし、感情的になり、時には無茶をすることもある。
 兄と同じ戦場に立つということも、扉間にとってかなりの重圧だ。柱間は、弟である扉間から見ても特別な男であった。忍として、天賦の才がある男だった。怪我ひとつ持ち帰らぬ兄と、戦のたびに傷を負って帰る自分。比べることではないと兄はいう。だが、周りの目は違った。いくら優秀であっても、その上をいくのが兄という存在。扉間が、兄に対する劣等感を抱くようになるのは必然だった。

 扉間は部屋の明かりも付けぬまま、畳の上で胡座をかいていた。先の戦で肩に負った刀傷は、それほど深くない。何も心配はいらない。七日もあれば塞がる傷だ。わざわざ治してもらう必要もない。部屋の外にいる妹にも、そう、ありのままを話せば良いのだが。
 歳の離れた妹にさえ、心配をかけている。そんな自分がひどく情けなくて、襖を開けることが出来なかった。大粒の涙を溜めて己を見上げるその顔を見ることが、至極辛かった。

「扉間兄さま、せめて、お顔がみたいです」

 小さく、消え入りそうな声が、何度も己の名を呼んでいる。別に泣かせたいわけではない。意固地な自分が、ここから動くことを拒否している。

 今日も多くの人間の死を見てきた。斬って斬られて、想いが散り、荒廃した地には虚しい屍だけが残る。扉間の肩に傷を負わせた人間も、もうこの世にはいない。その人間が最後に残していったのは、この肩にある痛みだけ。簡単に、忘れてはならない。憎悪も痛みも哀しみも。ひとの命を奪ったこの腕は、決して消えぬ痛みを持ったまま、またひとを斬らねばならない。
 名前の想いはどこまでも無垢だ。この兄を痛みから救ってやりたいという、たった一つしかありはしない。扉間が抱く醜い劣等感も、人を殺める時の恐怖も、散りゆく命を掴めなかった心の痛みも――妹に対する大きな不安も、何も知らないままでいてほしい。

 ここに、来てくれるなよ、名前。

 生涯守ると決めたのだ。決して、ここに踏み込んできてはならない。扉間は固く目蓋を閉じて、揺れかけていた心を閉ざす。愛おしいその呼び声には、答えぬまま。

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