始まりの名を知られぬよう



「はしらま、兄さま」
 愛しさを煮詰めて呼ばれた名を、マダラの耳は聞き逃さなかった。あの既視感の正体を突きつけられて、ああなるほどな、と胸のつっかかりが取れたような、憑物が落ちたような、そんな感覚だった。
 なまえの姓は、千手。焦がれてやまぬ兄の名は、千手柱間。柱間とは、兄弟の話は何度かしたものの、妹の話などはマダラに一度もしてこなかった。大事なものは、心の奥底に埋めて隠しておきたい質らしい。存外、あの男も根深いものを持っている。マダラは急速に心が冷えていくのを感じていた。

 名前はマダラの背の上で、ひどく無防備に兄を思って泣いていた。兄さま、兄さまと呼ぶ声の甘さは、まるで赤子が母の存在を求めて縋るときのようだ。ここまで盲信されている兄は、さぞかしこの妹に甘いのだろう。柱間の性格を思い出してみると、容易に想像ができた。マダラは、口元だけで笑みを象る。

 マダラに妹はいない。だが、愛しい兄弟はいる。五人兄弟のうち三人が、マダラより幼くして亡くなった。丁度、名前の年くらいの弟もいた。男子というだけで年端もいかぬうちから武器を持たされて、戦場に立たされて、無念にもその命を刈り取られていく。何の恨みもない、何の責任もない。ただ、うちは一族という名前だけで、悪と決めつけ斬り殺される。名前はその理不尽で残酷な世界から遠く離れたところで、今後もぬくぬくと生を育んでいくのだろう。
さぞ幸せなことだ。さぞ愚かしいことだ。千手とうちは、男子と女子。たったそれだけの違いで、命の重みが変わってしまう。


 名前を見ていると、死んでいった自分の弟たちが哀れでならなかった。愛らしいと思った微笑みも、傷ひとつない細く真白な手足も、愛を呟くことしか知らぬ甘だるい声も、今は憎らしくてたまらない。マダラは、血が染み出るほど唇を噛みしめた。
 命懸けで兄に守られているだけの存在のくせに、お前はなぜ、その一族の仇に背負われ、無防備に命を明け渡しているのか。俺はお前が憎くて、たまらないというのに。








 河岸まで辿り着くと、マダラは名前の身体を背からゆっくりと下ろした。名前は泣き疲れたのか、真っ赤に腫れた目蓋を伏せて、虚に弛ませている。マダラはそんな名前を、冷え切った表情で見下ろしていた。

「なまえ」

 少女が自分の名を発した時と同じ調子で、マダラは静かに口を開いた。名前の顔が、ゆっくりと上を向く。まるっこい瞳が、ぱちん、とひとつ緩やかな瞬きをする。
 真上に登る太陽の光が、マダラと名前の周りに影を作った。黒く色を失くした瞳は、名前の小さな身体をその視界に囲い込み、真っ直ぐに見下ろしている。名前はそれを見て、ふと思った。この目の形は、あのときの大人たちに良く似ている。


 棺桶を取り囲み、呪詛の言葉を吐く。暗く濁った恐ろしい瞳。憎悪、激情、怒り。名前が向けられたことのない恐ろしい感情。暗い影が己の身体を食い尽くそうと、大きな口を開けている。


「お前、他にも兄がいただろう」


 兄。そう言われて浮かんだのは、もうこの世にはいない、死んでいった兄たちの顔だった。――どうして。いつもは柱間や扉間の顔が真っ先に思い浮かぶのに。今日ばかりは、あの二人の顔が浮かんだ。名前の赤い両の瞳は、マダラの影に覆い尽くされて、黒く歪に歪んでゆく。

 深く掘られた地面の中に埋められていく兄の身体が、土の上に落ちて溶ける涙のあとが、柱間の手に縋ることしかできなかった、自分の小さな手のひらが。あの日の記憶全てが名前の頭の中に廻り、辺りの音を閉ざしていく。

「お前の兄は、俺の一族が殺した」

 地を這うように低く囁かれたその声の、一文字ずつが、ゆっくりと名前の鼓膜へ刻まれていく。あにをころした、いちぞく。名前は、その一族の名を確かに記憶していた。千手一族を殺めた、悪の一族。悪に取り憑かれた、うちは一族。このひとは、その一族の少年。

「俺はうちは。お前は千手」

「なまえ。これがどういうことか、お前にわかるか? 」

 千手である名前を、うちはの少年は恨んでいる。一族と一族の争い。名前の知らぬ世界が、この少年の心を通して見えてきた。
かつて扉間に言われたことがある。見知らぬものには姓を名乗ってはならないと。それがどういうことなのか、名前はうちはの少年に憎悪を向けられる今この瞬間まで、まるでわかっていなかった。

「なまえ。俺は今、お前を殺すことだって出来る」

 名前の首筋に、マダラの五指が添えられた。細く長くしなやかでいて、ごつごつと骨張った、傷だらけの男の手。ふっくらと柔らかで、傷ひとつない名前の手とは、全く別のもの。マダラの手が少し力を込めただけで、名前は呼吸の仕方がわからなくなった。もがくこともせず、ただマダラにされるがまま。
 名前はマダラの瞳の奥を見つめていた。すると、再びその色が赤く染まり、基本巴の紋を描く。先に見たあれと同じ。不思議な瞳。マダラの憎悪にチャクラが過剰反応して、黒い瞳を血の赤が深く濃く塗りつぶしていく。大きく見開かれたそれから一筋溢れる赤は、憎悪に塗れたマダラの哀しみを映す涙のように見えた。ものすごく痛い。マダラの憎しみは、ひどい痛みをともなっている。

「なまえ、兄を殺めたうちはが憎いだろう」
「……っ、ぁ、」
「俺も、弟を殺めた千手が憎い」

 憎い、憎い。マダラが憎しみの感情をぶつけるたび、名前は心の奥が抉られるような痛みを感じた。憎しみと哀しみは紙一重だ。哀しみが憎しみを生み、憎しみがまた新たな哀しみを生む。止まることはない連鎖。そんなかなしいことが、もうずっと昔から、名前や兄たちが生まれる前の時代から、続いている。

 名前は、首を絞めるマダラの手に弱々しく触れた。憎悪を携えた赤の瞳を、もう片方の手で覆い隠した。そんな名前の行動に、マダラは笑った。無垢な心が激しい憎悪を向けられて、黒い染みが広がっていく。マダラを恨み、憎み、死への恐怖を抱くことで、この少女の純真は穢されていく。その感覚が、ひどく心地よい。己の復讐心がほんの少しばかり満たされていく。
 小さな手で視界を遮られようとも。マダラの憎しみが消えるはずがない。目の前の儚い命が失われようとも、終わるはずがない。 

「っ、……」
「なんだ、なまえ」

 名前はほんの少し、身体の力を込めた。マダラは名前の最期の声を聞こうとした。死を実感して、無駄な抵抗をしてみせただけだろう。哀れな。どれだけ優れたチャクラや治癒能力があっても、呼吸を止めてしまえばどうしようもない。
 兄のそばで大人しく護られていれば、こんなことにはならなかった。柱間が、この細い首に鎖をかけて、自分の元から決してはなれぬようにその身を囲っていれば、名前は死なずに済んだ。

 掴まれた手はそのまま。塞がれた目もそのままに、マダラは名前の口元に顔を寄せた。憎しみを知らず育ったこの少女が、憎しみによって殺される、その死の間際、何を思うか。

「―――、」

 今にも消えゆきそうな名前の声を聞いて、ほんの一瞬。マダラの力が抜けた。それからすぐに、己の中で憎悪とともに蠢くチャクラがみるみるうちに静化してゆくのを感じた。はっと目を凝らしたとき、すでに写輪眼は消え失せており、名前の首を締めていた手の力が、あっという間に抜けていった。
 たとえるなら、チャクラを吸い取られたような、そんな感じだ。今までに味わったことのない感覚に、マダラは動揺を隠せない。

「なまえ、いま、何をした」

 昂っていた感情が一気に冷えていく。腹の中でぐるぐると渦巻いていた憎悪の塊は消え失せて、日の光を浴びた川の豊かなせせらぎが、マダラの耳にすんなりと浸透していた。

 名前の手が、マダラから離れていく。乱れた呼気を整えながら自分を見上げる名前の目が、哀しみの色に満ちている。

「なにも、……ただ、」

 名前の手が再びマダラに伸びて、唇に触れる。咄嗟のことで、マダラは反応すら出来なかった。名前の指先から、白いチャクラが漏れ出している。噛みしめた時に出来た傷が、みるみるうちに癒えてゆき、跡形もなく消え去っていく。

「いたそうだったから」

 マダラは呆気にとられていた。名前が泣きそうな顔で己を見つめている。今しがた、自分を殺しかけた男に向ける表情ではない。マダラはすっかり毒気を抜かれてしまった。死の目前まで見えて、何故そんな表情ができる。名前の瞳には、憎悪も、恐怖も、なにも浮かんではいない。あるのはただ、心が傷つき抉れたときのような、憂愁に満ちたもの。

「どうして、そんな目で俺を見る」

 指の痕が残った痛々しい首筋に、マダラは力なく手を触れた。痛みを与えたのはこちらの方だ。名前はマダラになにもしていない。ただ一方的に憎悪を向けられて、痛めつけられたのは名前だ。
 名前が触れた部分には、まだ暖かいチャクラの軌跡がある。写輪眼を使ったのに、なんの疲労も感じない。チャクラの流れが、いつも以上に穏やかだ。

「もういたくない?」
「……なにが」
「なまえをみるとき、いたそうにみえた」

 憎しみは、痛みをともなうもの。
名前の言葉に、マダラは激しい感情の揺らぎを感じた。自分がどんな顔をしていたかなんて知らない。ただ、なまえには、マダラが至極傷ついた表情をしているように見えたのだ。

 マダラは名前に対して、本当の憎しみを抱いているのではない。名前を通して見えた、幼い兄弟たちの死への無念、絶望、哀しみ、それら全ては、マダラの心を取り巻き抉り続ける痛みに変わっている。思い出すたびに、辛いのだ。消したいのだ。健やかな心と甘い愛情に塗れた名前に出逢い、己の無力さを突きつけられた。

どうして俺には、護れなかった。






「なまえ、たぶん、いたいのはなおせる」

 首筋に残したはずの爪痕は、既に跡形もなく消え去っている。自分の犯した罪でさえ、名前は消し去ってしまう。深く心を抉ったはずなのに、その表情は無垢のまま。どうしてこんなに、綺麗でいられる。

「……医療忍術で、心の痛みは治せねぇんだよ」

 ではなぜ、己の心は斯くも穏やかであるのだろうか。

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