暗い色が入り混じる世界を、わたしは魚のように泳いでいた。美しくないと悪口を言われるヒンバスに似た呼吸をしながら、布を握り締める。呼吸が上手くできない。あなたのことを考えると、どうらやわたしの体は可笑しくなるらしい。その結論に達したのは、何気ない、ただあなたを見た瞬間だった。
 うつしい夜のこと。わたしはこの夜に、地獄の沼を泳ぐ。胸を覆う服を掴み、細い喉で僅かな呼吸をする。引きちぎれんばかりに、右手できつく縛った。わたしはこの手で、わたし自身の心臓を蝕んでいる。世界のどこかでは、月が爛々と輝く夜に寄り添うヒトが居るのだろう。今夜もユウキくんとハルカちゃんは、二人でうつくしい夜を過ごしているのでしょうか。少し怖く、幻想的な闇を渡るヒトが居る中で、息苦しい夜を過ごす。そうして、わたしはやり過ごし、次の朝を迎える。
 わたしは、肺いっぱいに空気を吸い込み、大きく咳き込んだ。喉から吐き出される咳きは、喉を痛めつける。顎の下を親指で押さえつけられ、しなやかな指で気管を圧迫している感覚に襲われるが、気のせいだったに違いない。
「あのっ、大丈夫……?」
 不安げな声色で、わたしの肩を叩いた。わたしははっとして、すぐ側に居る顔に歪んだ笑みを向け、苦しげに呼んだ。
「ミツル……く、ん……」
 エメラルド・グリーンの瞳が揺らめいてわたしを捕らえた。わたしは咳き込むことを忘れ、その瞳に見とれていた。彼はとても落ち着かない様子で、小刻みにやわらかい質感の髪が揺れているが、わたしはその振り子を視界の端で感じた。
 わたしが苦しみに震える毎夜に、ミツルくんが側に居る。彼が旅を終えた日から、抜け出せない地獄に唸る夜を、見守ってくれていた。わたしは目覚めたとき、胸に深い安堵を覚え、生きていることを実感できるのだ。
 室内は紺碧に塗られている。わたしはゆっくりと部屋を見渡し、まだ完全な朝が告げていないことを知った。そう、まだ朝じゃないのね、とわたしが呟いたとき、あなたは頷き、まだ世界が醒めるには時間が早過ぎるよ、と言った。ミツルくん、あなたの鬱血した目元の肌を見るだけで、あなたも早く夢の世界に堕ちてしまいたいのだと、わたしは感じた。
「ずっと、側に居てくれたの? 昨日も、この前も」
「うん……。あなたのことが、心配だから」
 あなたは頷いて、儚げに微笑んだ。眠たそうに目尻を垂らしつつ、ゆっくりと餅のような唇を動かした。ありがとう、と声にはならない声で伝えると、眉を下げ一瞬困ったような表情で、
「大したことじゃないよ。僕はただ、あなたを守りたいだけだから。魘される夜を過ごすなら、目覚める頃は気分良くしたいんです」
 と言った。
 しかし、わたしはその気丈さが不安で堪らない。
「でも、無理はしないでよ。ミツルくんは体が弱いんだから。いくら旅に出て体力付けたって言っても、夜更かしは身体の毒だよ」
「ありがとう。でも大丈夫だよ。今はあなたが、心配だから」
 ああ、今、わたしは胸が苦しい。落ち着いた調子で刻む左胸の鼓動が、わたしを背筋から駆り立てた。わたしはミツルくんを見るとどうしてむせび、両肩を寄せ、甘さに震えるのだろう。この咽ぶほどの苦しさは、毎夜魘されるものとは違う、愛らしい感情だ。わたしは、ミツルくんの手に触れて安堵を手にしたいが、この苦しさに耐えるので精一杯で思わず毛布を鼻先まで被る。
 あなたは、わたしの瞼に触れて瞳を閉じさせた。おやすみなさいミツルくんと言葉にすると、あなたはひどく柔らかい声で、それじゃ、おやすみなさい、僕が側に居るから、安心していいよ、とわたしに眠ることを促した。
 目を閉じて、幾つ刻んだかはわからない。押し込まれた苦しさに悶え、甲高い声を洩らした。首の裏に添えられた八本の弾力のある冷たいもの。もう一本で、喉仏を潰される。わたしは、無間の夢を見ているだろうか。足元は炎で焼き尽くされていないが、毎夜わたしを苦しめる夢だ。手だ。しなやかな指で、一番やわらかいところを押さえつけられる。硬く鋭利なものが突き刺さるので、何かと思い考えてみると、それは薄い桃の甲羅だった。
 わたしは咽ぶことだけをこらえて見上げた。相変わらずの紺碧が室内とその人の顔を隠している。わたしはとても不安で、水を獲ない魚のようにか細く息をすること精一杯だ。すると、次第に視界が闇に慣れて、薄灰色に喉を押さえつける指から伸びる腕を視線で辿り歩く。飛び込んだのは、暗い翡翠だった。わたしは震える手で押さえつける腕を掴んだ。力は入らないが、あまりにもの手首の細さに驚愕した。途端に心臓が慌て出し、わたしは気を失ってしまいそうだった。
「ミツル、く、ん……!」
 エメラルド・グリーンの透き通った瞳は、暗く沈んだ雰囲気を浮かべていた。起きてしまったんだね、とその人は唇を動かした。わたしは、戦慄した。
「っ……!」
 ミツルくんは、悲しそうにそして苦しそうに吐き出した。その時、わたしはすべてを悟った。まだ、夜は長い。だが、わたしの現実を受け入れる容器の容量は、そう多くはないのだ。あなたは、ゆっくりとわたしを押さえつけていた手を離し、力無く腕を降ろした。わたしは大量の空気を肺に届けようと、口を開き、胸を膨らませた。うるさいほど咳き込み、喉には痛みが残った。
 既視感。わたしは似たようなことを、何度も繰り返している。
「どうして……ミツルくん……」
 鬱血した目下を包む肌は、窓を隠す幕の隙間から室内に入り込む街灯でうつくしく照らされた。それは、薄い膜の先にある狂気を見つめてる姿に違いない。
 僕のことを考えるたび、苦しくなってよ……、僕のことを想い焦がれ苦しくなって、とミツルくんはわたしの胸に手を置いて、今にも雫を零さんとする表情でわたしを見つめた。
「あなたのことを想ってると、苦しいんです。あなたも、僕じゃない誰かを視ているんでしょ。大好きだったハルカさんも、ユウキくんのことばかり見ている」
 そう言うなり、ミツルくんは再びわたしの喉に手を掛けて、指圧しようと力を込めた。
 どうせあなたもこんな力も無い僕より、より強い人を求める、だから、君を、今一番大切なあなたを誰にも渡したくない……! ねぇ、僕のことだけ、考えてくれる……? 僕のことを考えて苦しくなって、と言い残し、爪を立てたのだ。わたしは、苦しさに溺れもがき苦しんだ。ぐっと水槽の底に押し込まれた苦しさだ。わたしは腕を伸ばし、あなたの頬に触れた。痙攣する指で、なんとか鬱血している不健康そうな肌をなぞった。目元から頬に、星座をなぞるように指先で辿る。
 結局、何があなたを奇っ怪な狂気に駆り立てているのか、わたしには分からない。ただ、ミツルくん、あなたも悪い夢を見ているに違いないのだ。
 わたしは、ミツルくんの手で地獄の沼を毎夜、渡っている。悪夢から醒めたとき、そばで不安そうに心配してくれていたのは、いったいどういう意味なのか。わたしも苦しいよ、あなたを想うと、痕跡を残さないで旅に出た日からずっと、あなた影を探していたというのに。

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