一通り汚れを落とし終わり、出来映えをみて小さくため息を吐いた。やっぱり綺麗な駅は魅力的だ。自分が磨きあげた床をみて清々しい達成感を覚える。しばらく惚れ惚れと見ていたのけど、いつまでも浸ってなどいられない。仕事はまだまだ山積みなんだ。
 くるりと方向転換すると、視界には真っ黒なコートを着た男性が入り込んだ。あ、と小さく呟き、わたしは頭を下げてあいさつをする。

「ノボリボス、おはようございます!」
「おはようございます。構内が綺麗ですと気持ちがいいですね」
「やっぱりボスもそう思いますか? 清潔感のある駅ってまた使いたくなりますよね」
「ええ。いつも清掃員の皆様には感謝しています。お客様が快適に利用できるのもあなた方のおかげですからね。ありがとうございます」

 そう言ってノボリボスは恭しく頭を下げた。慌てて「やめてください」と言うと、なぜ? と言いたげな顔でこちらを見られた。いつもこの人はこんな感じだから困る。 この職場で一番偉いはずのノボリボスは、末端のわたしにまで敬語で話す。本人曰く、敬語は癖みたいなものだし、ここで働いている人全員に敬意を持っていますので。とのことらしいがここまでされると少しだけ困る。他の職場では見下されがちな清掃員にもこの調子なのだ。なんだか申し訳ない。

「そんな大袈裟な。皆さんの努力のお陰ですって。それにわたしはまだおじさんの仕事の足下にも及びませんし」
「何十年も清掃員をやっているベテランレベルにできる方が問題だと思いますよ」
「でも清掃員として、おじさんみたいに仕事ができるようになりたいんです。あは、道は遠いみたいですが。でもボスにそういっていただけると掃除のしがいがあります!」

 そう言ってモップを構えるとボスは僅かに口角をあげた。ひきつっているようにも見える。最近気がついたことだが、笑っているらしい。
 ボスはちょっと変だけどすごくいい人だ。わたしはこんないい人の元で働けるのを密かに誇りにしていたりする。多分他の鉄道員さんや清掃員のおじさん、ジャッジさんや受付人たちも同じだろう。まったく、わたしもいいとこに就職できたものだ。
 あ、楽しいから忘れてたけどこんな事をしてる場合じゃなかった。ボスも多忙なんだし、邪魔しちゃだめだよね。

「じゃあまだ清掃が残っているので失礼します。ボスはこのあとシングルですか?」
「はい。ナマエ様お忙しい中、声をかけてしまい申し訳ありませんでした」
「お忙しい中って、ボスが一番忙しいじゃないですか! じゃあシングルがんばってくださいねー!」

 そういってノボリボスから離れ、わたしはトイレの清掃に向かった。ボスと話したせいか、今日もがんばらなければというやる気がわいた。よし、もっと気合いをいれて仕事しよう! わたしは誰に言うわけでもなく決意した。




 トイレの清掃を終えホームに引き返すとそこは人で溢れていた。ああもうこんな時間か。バケツとモップを持って休憩室に戻ろうとしたとき、一人のビジネスマンがぽいっと手に持っていた缶をホームに捨てていった。ポイ捨ては禁止ですよと注意しようとしたのだがそのビジネスマンはすぐに走って行ってしまった。『二番ホーム、ご注意ください。電車が通過いたします』というアナウンスと重なるように『一番ホーム、××行きが発車いたします』とアナウンスが入っていたからきっとそれに乗るのだろう。駆け込み乗車は危ないからやめてほしい。ため息を吐きながら転がっていく缶を拾いにいった。あのままだと線路に落ちてしまう。黄色い線を越えたくらいで缶に追い付いて拾い上げた。
 危ない危ない。もし落ちてたら大事故になっていたかもしれない。さて、戻らなきゃ。そう思った時だった。

「あれ逃したら間に合わないぞ!」

 その声と共に、ドン、と押されるような衝撃がわたしの体を襲った。脊髄反射で足を前に出して止まろうとしたのだが、踏み出したのだがその先に地面はない。
 やけにゆっくりと体が宙に浮かんで、わたしは重力に逆らわず路線に投げ出された。鈍い音が響き、全身に走った激痛に思わず絶叫した。ろくに受け身もとれず、路線に叩きつけられた体はミシミシと悲鳴を上げる。
 痛みに気をとられて喘いでいると、金属と金属がこすれるような大きな音が耳に入った。

「あ、ああ」

 音のするほうを見た瞬間、全身の血液が凍りついた。そこには、わたしに向かってくる電車があった。火花を散らせながら近づいてくる車輪を見たら、体がこわばって動かなくなった。先ほどの痛みはもう感じない。
 わたしは、ぼろぼろと涙を流して懇願した。

たすけ

 言葉は最後まで言い切れないまま、金属音の隙間に吸い込まれていった。


* * *


 ナマエ様の死から三日がたった。事故ということで警察はまとめたが『自殺の理由となるものが見当たらなかったから』というだけではっきりとした理由はわかっていない。サブウェイにはまだ暗い雰囲気が流れていた。立ち直れている人間は誰一人としていない。だが、同僚の死の後でも仕事を休むわけにはいかなかった。仕事に私情を持ち込むべきではないとわかっているのだが、どこかやるせない。ホームを見渡し、物足りなさを覚えて歪んでもいない帽子を被り直した。
 その後、マルチで呼び出しを受けたためクダリとマルチのホームへと向かった。そのときお互いにナマエ様のことには一切触れなかった。今のサブウェイは彼女の名を出すことは暗黙のうちに禁じられている。傷口に触れるのを全員が避けてるようだった。
 ぼんやりとそんなことを考えながら人の少なくなったホームを通りかかる。すると突然、クダリが歩みをとめた。何かあったのかと問いかけてみても反応が無い。クダリの目線を追うとそこには一組のカップルがいた。なにかを話している彼らは楽しげだった。その様子をクダリはとても強張った表情で見つめている。いや、睨んでいるといったほうが正しいだろうか。その理由が判らず、つい聞き耳を立てて彼らの話を聞いてしまった。

「えー、ほんと?」
「うん。結局遅刻したよ。人身事故だなんてふざけてるよな」

 その言葉を聞いた瞬間、全身が粟立つ感覚に襲われた。人身事故、その言葉からある人物が連想される。そしてその答えを一瞬のうちに振り払った。違う。彼女じゃない。人身事故なんて数えきれないほどあるのだ。これ以上は聞いてはいけない。頭の中で警鐘が鳴るが、彼らの会話が頭の中に入り込んでくる。

「だいたい死ぬならさ、首吊るでもなんでもいいから人の迷惑にならないところでやって欲しいよな」
「たしかに、他人に迷惑かけて死ぬなって思う」
「自殺志願の考えることは俺にはわかんないな。自分の死体見せびらかすんだからすごい自己中だとは思う」
「あははは。見せびらかすって」
「あれって血の跡とか残らないのかな?」
「どうなんだろうね。というかその人が死んだのって何処なの?」

 興味津々といった風に女性が男性に質問する。男性は女性の楽しそうな様子に満足しているようだった。誇らしげに彼はある方向を指差してこう言った。

「あそこにある二番ホームだよ。時間に余裕あるし、見に行ってみようか」
「やだー! 跡残ってたら気持ち悪いじゃない!」

 その言葉を聞いた途端クダリは動き出した。迷いなくその二人のところへ進み、男性の肩を掴む。突然のクダリの行動に、男性はひどく驚いたようだった。

「クダリさん……!?」
「え、この人が!」

 クダリと聞いて女性は嬉しそうな声を出す。だがクダリはなんの反応も示さず、男性の肩を掴む。それに違和感を覚えたのか男性が不思議そうな声を上げた。

「あの、クダリさん?」
「…………ったの」
「え?」

 ぼそりと何かをいいながらクダリはすっと片腕を上げた。その拳は堅く握られている。その腕が振るわれようとした瞬間、クダリの腕を掴んだ。本気で男性を殴りつけようとしていた。止めなかったら、と想像してぞっとする。

「ノボリ離して」
「…………」

 止めたのが気に入らなかったのか、忌々しげに睨み付けてくる。だが殴らせるわけには行かない。無言でクダリの腕をありったけの力で握った。
 しばらくは互いに睨み合っていたのだが、クダリは男性の肩から手を離し、わたくしの手を叩いた。険悪な雰囲気が広がり、四人の間に沈黙が流れる。

「お客様、危ないですから黄色い線を越えないようお願いいたします」
「え、あ。ほんとだ、すみません!」

 女性が慌てて男性の手を引き、黄色い線の外側から移動した。とっさに出た言葉だったのだが上手くごまかせただろうか。クダリはその二人を一瞥すると、そのまま近くにあったスタッフルームへと入ってしまった。わたくしは困惑した表情を浮かべる二人に頭を下げ、クダリの後を追ってスタッフルームへと入っていった。
 



 部屋に入ると憎しみのこもった目でクダリはこちらを睨んでいた。他に人のいない部屋は静寂に包まれている。ドアを閉めるのを見計らったようにクダリは口を開いた。

「どうして止めたの」
「……駅員がお客様に暴力を振るうなどあってはならないことですから」

 その瞬間クダリはわたくしの胸倉を掴み上げ、そのまま壁へと叩きつける。息がつまり思わず小さく呻くと、激昂したクダリは叫んだ。

「あいつらナマエのこと馬鹿にした! 迷惑だって、気持ち悪いって! 人が死んだのにあんなに楽しそうに!」
「クダ、」
「ボクたちは駅員である前にナマエの友達でしょ! そんなこと言われてどうして黙ってるの!」
「クダリ!」

 激昂するクダリの顔を思いっきり叩いた。乾いた音が響き、クダリの帽子が下に落ちる。

「公私混同も大概にしてくださいまし」
「……でも」
「わたくし達にとってはナマエ様は大切な方です。しかし、お客様にとっては」

「予定を狂わせる、迷惑な輩でしかないのです」

 その言葉にクダリは目を見開いて固まった。言葉にすらならないようだった。だがわたくしはそのまま続ける。自分でも驚くほど冷たい声が部屋に響いた。

「事故でも自殺でも、どちらでも《人身事故》でまとめられるのですから、お客様は知らなくて当然です。それにあなたも駅員ならわかるでしょう。どれだけラッシュ時の事故が目障りであるのかなど」
「…………っ」
「あの方が遭遇した人身事故で、亡くなったのがわたくしたちの知り合いだった。それだけです。何を言われたとしても仕方が、ないでしょう」

 後半の声は、情けなく震えていた。目頭まで込みあがってきたものを隠すかのように帽子を深くかぶり直す。それを見て、クダリは吐き捨てるように言った。

「……泣くくらいなら、言わなきゃいいのに」

 そして帽子を拾って行ってしまった。一人になった部屋は再び静寂に包まれる。呆然と立ち尽くしていると、乾いた床に涙が落ちた。惨めだ。

 あの時、確かに自分は彼女を侮辱されたことに憤慨していた。でもそこには言い表せぬ罪悪感がある。わたくしは怒りより先に立場をとったのだ。自分を守るために。彼らを正当化し、客観的にナマエ様を見なければ、受け止めきれなかった。先ほどの言葉はクダリにというよりも自分に聞かせていたと言った方が正しい。一般論は自分を守るための盾だった。どれほど傷つくことを恐れているのだろう。クダリのようにナマエ様を馬鹿にされたと怒ることができたならよかった。それに比べて自分のなんとあさましいことか。

「ナマエ様」

 彼女の名前を呼び、床へと座り込む。

「お慕いしておりました」

 誰に言うわけでもなく過去形になった言葉を呟いた。このまま思い出として消えていく。そう考えると胸が痛んだ。
 いっそ、彼女の後を追って飛び込んでしまえたら楽だったのだろうか。いや、臆病な自分は近づくことすら出来ないだろう。黄色の線の向こうにある、彼女の越えた死線など。
 矛盾する答えは酷く馬鹿馬鹿しく思えて、涙が溢れた。


向こうには行けないよ


 所詮はその程度の恋慕の情だったのだから。

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