僕と彼女の話を述べるに当たって留意すべき点が多々存する。それは、この話が千ほど存在する僕と彼女の数多の中のひとつであるという点と、一切の事柄が、僕の理性が保ち得る範囲内で行われたという点である。前者については後に言及することになるとして、後者について、これが非常に重要である。僕は決して世間一般にいわれるような、頭の狂った、なにもかもにつけて錯乱したような状態では、全然なかった。加えて、これが、この現在をも続く彼女に対する一連の行為が、愛という言葉の範疇に分類されると断言する。
あのときの僕は、チャンピオンという肩書から誰につけても皆から尊敬されるような立場にあった。これはチャンピオンという職務に就く以上、そうなるようにこの世界ができているのである。そんな中、彼女だけが違った。彼女だけが別に僕のことなど対して気にも止めていないように、尊敬や畏怖の念すら全く抱いていないかのように、僕の横を通り過ぎるのだ。で、毎回それが必然のようであったから、とうとうそれが自分でも非常に気になる点であることを認めた。夢にまでみるようになったのだ。僕は彼女のとり澄ました顔が破滅する様を思い描いて息切れがした。


「はじめまして、ナマエ。僕の名前はトウヤ」
「…知ってるよ。新しいチャンピオンさん」


彼女は心持笑った風を装ったが、それは見せかけだった。そのことに気付いて、僕は憤怒の情に駆られた。今まで僕に対して、こんな人間は見たことがなかったからだ。別に僕は万人に愛されているとか、皆から崇められているとか、そういった思想は全然持ち合わせていない。むしろ、自動的に上から見下ろすような地位にいる以上、恨まれることさえあると心得ている。しかし、彼女の態度はそんな風ではなかった。それはなにか全く別の、他人を不愉快な心地にしてしまうような。


「どうしてわたしの名前を知ってるの?」
「君の友達から聞いたんだよ」
「どうして?」
「君のことが気になるから」


そう言うと彼女は本当にびっくりして、笑いだした。


「わたし、あなたのことすきにならないよ?」


そうして、心底可笑しそうにくすくすと声を立てて笑うのだ。だから僕は余計に彼女が欲しくなった。それから固執が始まった。が、僕はすぐにも分かっていたのだ。本当は彼女が、僕が彼女を見つけるより先にずっとずっと僕に恋していたということを。それもそれが、何年とかそういう単位で育てられてきた感情であるということを。僕はだんだん夢想するようになってきた。彼女が本当に僕を想って、僕だけに悩まされて、僕で頭がいっぱいになって、それでおかしくなったらいいのにって。そうしてそれはそれほど時間をかけずして現実のものとなった。僕のことなんてすきにならないと虚勢を張った彼女が、今や部屋の片隅で僕の帰りのみをただ待って、じっと座っているのだ。僕はそれに気持ちよく満たされた。でも、もっと面白いことがしてみたくなった。嫉妬した彼女がどうなってしまうか見てみたくなったのだ。そうすると、ますます彼女は閉鎖的になって、僕以外とは誰とも話さなくなった。それで僕はようやく彼女を自分のものにした気になったのである。「ただいま、ナマエ」と僕が声をかけて電気をつけてやると、彼女は初めて今日という日に気がついたような心地で、僕の元へと飛んでくるのだ。


「トウヤ、トウヤ、トウヤ。お願い、トウヤ。どこにもいかないで。わたしだけと喋って」


そうして、僕の首に腕を回して耳元で泣きながら呻くので、僕は気持ちがよくってぞくぞくした。で、こっちもそんな愛しいナマエをしっかりと抱きしめると、この幸福が恐ろしすぎて身が千切れそうになるのだ。


「だいすきだよ。ナマエ」


ナマエの髪に身を埋めると、その香りに酔ったような心地がした。そうすると、彼女は涙でうるうるとした瞳を僕に向けて、「ほんとう?」と嬉しそうに問うものだから、僕は一生かたときも彼女を手放せないと悟った。これはそれほどまでに僕を深く魅了するのだ。計画は順々に成功を遂げたことを僕に告げていた。僕はまるで幸せだった。だが、一向に全くの加減が分からなかった。これは何度試みたって慣れることではなかった。僕はどうかするとひどく失敗してしまう。彼女を愛するがゆえにその加減が分からなかった。どこまでいけばいいのか、どこで終わりになるのか、全く分からなかった。いや、それは今でも言えることなのだ。僕はこの蜜にまみれた世界に一筋の思慮を加えることすらできないでいる。全くもって、僕は彼女のこととなると、非情に盲目的になってしまうようなのだ。だが人間である以上、快感は止めることができない。


「…わたし、あんなやつらだいっきらい。トウヤのことすきな、あんなやつらだいっきらい。トウヤ、お願い。あんなやつらと喋らないでよ」


そうして暗い部屋の床上で、くぐもった声を発しながら涙するナマエを見ると、僕はどうしようもなく歓喜の情に心を領されるのだった。困ったことにこの得体の知れない感情は、坂道を転がるようにして、僕の中で肥大化を続けた。瓶詰め天使に標本少女。人間はより崇高なものを犯してこそ、初めてそれを支配できる。瓶の外から、標本の淵から、それを眺めまわすことができるのだ。しかし、そこに到達してこその難しさがある。それをどう継続させるかだ。その加減が一番難しい。僕も未だかつて、それに成功したことがない。いつも駄目にしてしまうのだ。せっかくの最高の逸材を枯らしてしまう。どうしたってみずみずしい部分を早々に奪ってしまう。甘い蜜を吸うことだけに特化しすぎた。彼女があまりにもすきすぎて。それでも僕は、彼女がいう『あんなやつら』と接することをやめなかった。人である以上、快感を捨て去ることができないからだ。僕が『あんなやつら』に優しくすればするほど彼女は壊れる、苦しむ、僕を満たしてくれる。最高じゃないか。最高だよ、ナマエ。君は最高だ。


「どうしよう、トウヤ。わたし、わたし、トウヤがあんなやつらと喋ってるところをみると、どうしようもなく殺したくなるの」
「誰を?」
「あいつらみんなを。どうしよう、トウヤ。わたし、自分で自分が恐ろしい。ときどきナイフを持っているところを想像するの。恐ろしい。このままじゃわたし、人殺しになっちゃう」


それで掌をわなわなと震わせながら声を上げて泣き出すのだ。僕の足元にひれ伏して。僕の膝を抱きながら泣くのだ。そんなことをされると、僕は恍惚とした気分になってしまう。卑怯な態勢だった。そこに男として感ずるところがあるので、それを振り払うべく、足元の彼女を抱きあげて、自分の膝の上へと座らせた。僕が悪いのに。これは全部、僕が君を歪めたいがためにやったことなのに。その愛しい表情をひとたび、依存と絶望に満ちた表情へと破壊させたいがためにやったことなのに。そんな悪魔のような計画にも全く気がつかないで、僕の手で植えられた感情を自分のせいだと苦悩して、泣いて責めて、僕に縋って。可哀相なナマエ。なんて愛しい対象なのだろう。君の手が血まみれになったらそのときは、僕は君をもっともっと愛すよ。


「だいすきだよ。ナマエ」


そうして困ったように眉を下げながら微笑みかけると、彼女がますます苦悩することを知っている。真っ赤になった目をもっともっと腫らしてしまうことを知っている。膝に乗せたナマエをまるで人形かなにかのように都合良く動かして、見上げた瞳に罪はないとキスをする。その身体をぎゅっと抱きしめて、ほら、もっともっと苦悩しろ。もっともっと、僕のために苦しめ!


「トウヤがすきでいてくれてるのに、わたし、こんなんじゃいや。こんなんじゃ、いやだよ。トウヤにすきでいてもらう資格、ないよ」


そこまで震える唇をやっとのことで動かすと、それはそれはもう幼女のようにわんわんと大声をあげて稚拙に泣き出すのだ。ナマエ、すきだよ。だいすきだよ。可愛い可愛いナマエ。たったひとりの僕だけの女の子。そのときなにが起こっただろう。僕は瞬時に理解することができなかった。それは僕に必要以上の瞬発力を要した。顔を斜め90度近く動かして、それで初めて僕は、頬が薄く裂けていることと、栗色の毛が何本かはらはらと白いシーツの上に舞ったことを知った。ナマエは、全くもって美しく蒼白で、相も変わらずその僕の大好きな可愛い顔を苦痛に歪めて、瞳から大粒の涙を零し、がたがたと震える細腕を振り上げて、僕を見ていた。僕の膝の上に座ったまま、まるで人形かなにかのように。その手にはナイフが握られていた。どうやら、彼女は想像で押しとどめることができなかったようだ。それは人も殺せないような細いペンナイフであったが、凶器としては十分によく働いた。僕の頬と髪を薄く切って、それでもなおその切っ先はぎらぎらと銀色に輝いている。失敗した、失敗した、失 敗 し た !またしても僕は、彼女に、失敗した。


「トウヤ、ごごめんね。もう、わたし、こうするしか、わかんなくて」


がくがくと身を震わせながら、聖なる涙を落して、もう一振り。華奢な腕を振り上げる。一心に僕の心臓目指して。僕はぐさと何かに身体が刺し貫かれたような心地がした。むろん物理的にではない。彼女ほどの身体能力で僕を殺せるはずがない。僕はそのナイフを振りおろした手首を捕まえて、力任せにベッドの上に放り投げた。短い悲鳴がシーツの中でくぐもった。そして、一切の手加減無しに彼女の臀部を打擲した。空気を引き裂くような音が振動した。彼女は薄っぺらいスカートだった。呻くようなしゃくり声がシーツに押し付けられたその喉から転げ落ちた。恐ろしい音はもう一度続いた。それからもう一度。彼女の発する叫び声がだんだん甲高いものに変わっていったことを僕は確かに覚えている。息切れがした。そのまま僕の掌は薄っぺらいスカートの中を弄った。彼女がなにか別のことに反応して悲鳴を上げたけど無視をした。僕はもう熱に浮かされているようなていであった。それでも意識はより鮮明ではっきりとしていた。これは先に述べた通りである。すべては実に流れるような速さで了したのだ。僕は倒れ伏す彼女の髪をひっ捕まえて、恐ろしく真っ赤なその耳にうんと唇を寄せると、思いっきり声を低く下げて哀しく囁いた。


「ナマエ。やり直そう。最初っから。全部やり直そう」


大好きな僕の指に反応して彼女は犬のように一声鳴くと、僕の言葉など一切耳に入っていない様子で、ただ快楽に支配されまいと必死なようだった。ずくずくと妙な水音だけが響いた。ナマエ。すきなのに。こんなにこんなにすきなのに。また、諦めてしまわなければならない。僕は分からない。すべての加減が分からない。どこまでいけばいいのか、どこで終わりになるのか、全く分からない。ナマエ。こんなにこんなに僕をすきにさせておいて、いつもいつも僕ひとり残して置いていかないでよ!ぶつりとなにかが途切れる音がした。












「はじめまして、ナマエ。僕の名前はトウヤ」


はじめまして、**番目のナマエ。君は全く知る由もないけれど、このはじめましての挨拶ももう**回目になるんだよ。愛する愛する僕のナマエ。今回は失敗しないでいけるかな。もう僕はずっと君を愛しすぎてこの呪いからどうにも動けないんだ。永久に。僕が君を愛さない世界がくることなど有り得ないのだから。ずっと、ずっと。この欲望にうまく加減ができる日がくるまで。ずっと。にこりと笑った。振り向いて僕の顔を怪訝に見たその瞳から、聞こえるはずのない絶叫が聞こえたような気がした。どうしたって君は僕から逃れることなどできやしない。僕は罪の鞭打者である。愛する君のくたくたな心を今日も打ちつけるのだ。


「よろしくね。ナマエ」


差し出されたこの手を、愚かにもまた君は取った。

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