※男女お好きに

士季と呼ぶ声の調子を明確に思い出したのは何年振りだろうか。世話になったのは、合わせて二年になるかという程度のものだったはずだ。

その人は確かに私の師であったが、大して何かを教わった記憶はない。というのも、単純に私の方が師よりも長けていたからだ。それでも私はあの人を師と思っていたし、あの人は私の才を褒めてくれた。士季は他者より優れすぎているから、だから見え方が違うのだろうと何処か悲しそうに、少し眉を下げて言うのが癖のような人だった。


「鍾会様、医官を呼びますか?」
「何だ、急に」
「いいえ。筆が進んでいらっしゃらないので、些か」
「問題はない。…茶を寄越せ」
「畏まりました」


揖礼して下がる女官も私に仕えてそれなりに経つが、腹を立てる様子も怯える様子も見られない。師は何かと私と他者との関わりを危惧していたようだったが、何がそんなに不安だったのだろう。優れた人間は嫉妬の対象、決まりきったそれは選ばれた存在の宿命だ。相手の態度ばかりを気にかけて埋没するなど愚の骨頂、まあ別に、師がそうしろなどと口にしたことはないが。


「………」


学問所からの帰りに邸へ寄り話をする存在、私は何故あの人を師と呼んでいたのだろう。士季と呼ぶ調子は思い出したというのに、それ以上に重要だろう点が思い出せない。

だが何を教わったでもないが、間違いなくあの人は師であったのだ。


「鍾会様」
「何だ。茶ならもう、」
「いいえ、こちらを。お捨てになるのかと」
「使えない筆は不要だろう。捨てて何が悪い」
「そのようなことは…ただあの、とても大事にされていたようにお見受けいたしましたので、つい」
「――…それでも、使えないならば意味はない」


士季は字が綺麗だ。士季自身の文字もだが、私の字もこんなに綺麗に。それも士季の才の一つだな。

私が何かを書いて見せる度、師はそんなことを口にした。その日に学問所で得たことを私が話すと楽しそうに聞いてくれた。勉学は私の方が優れていたから、まるで私が師のようでもあった。


「いただいたものだと、お聞きしましたので…」
「どうするか判断をするのは私だ。いちいち口を挟むな」
「――申し訳ございません、鍾会様」
「…わかればいい」


私は士季の文字が好きだよ。そう笑って、司馬師殿に褒められた祝いだと言って渡された筆。大したものではないと師は言っていたし、事実私が使っていたものよりも安価なもので。それでも、嬉しかった。あれ以降あんな気持ちになったことはない(たかが筆一本におかしな話だが)。


「…それだけか?」
「そう、ああ、こちらが。市街の女人から預かったものと――…」
「文?…何故市街の女からそんなものが」
「ただ読むだけでと、そう言っていたようです」
「まったく…寄越せ」
「はい」


なまえ殿。書かれた文字に急速に喉が渇いていく。まあいい、あとで茶が。そう考えたのが誰で、文字を追う毎に混乱しているのは誰なのか。士季にわからないことはないのだろうな、笑っていたのは師。私の師、なまえ殿だ。


「……おい」
「…はい?」
「筆を」
「え?既に、」
「お前が持っている筆を寄越せと言っている。さっさとしろ」
「はっ、はい!」


士季は少し頑固だから難しいかもしれないけれど、そんなお前も信じられる相手が出来たなら言葉を聞きなさい。それはお前を想う言葉だよ。

私の話に耳を傾けていた師の言葉は、私を想ってのものだったのだろうか。


「…あの、鍾会様」
「――出てくる。急用だ」
「どちらへっ、本日は司馬昭様がいらっしゃると」
「文の女…女性に、会う用が出来た。司馬昭殿には私から詫びておく」


私は穏やかに微笑むなまえ殿を見たくて、私の論をなまえ殿が聞いてくれることが嬉しくて。

私は、時折与えられる言葉の意味を理解出来なかったからあの人を師と呼んだのだろうか。私の知らないものを知る人として、それを知ることが出来たら、近付ける気がして。


「私は士季が好きだよ。どうかそれを忘れないでいておくれ」


込められた真意を知る術は、もう。



end.

20130404 むじ


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