がらり、と古い扉が開いた。いらっしゃい、と声を掛けようとして、口を噤む。


「中華鍋、あるんでしょ?」


あれは知っている顔だった。
広げているばかりでさして読んでもいなかった新聞を畳む。じっと見つめ、俺もようやく重い口を中途半端に開けた。


「ここは中華料理屋じゃないよ」
「ふざけるな、知っている」
「何を?」
「ここが、その売店だと」
「ふうん」
「…店長じゃ、ないのか?」
「うん、まあね」
「…」
「だから俺が簡単に手を出す代物じゃない、」
「…」
「そのうち帰ってくるよ。それまで待ってたら?」


随分と荒んだ目をしている。その目に俺を映し、暫く沈黙した後にこくりを頷いて店の隅に座り込んだ。だらりと床に投げ出した足と、立てる足。丸まる背中には見覚えがあった。
床にうっすら出来ている埃の膜を指で撫でながら、何を考えているのだろうか。あまり他人に興味のない俺だったが、不意に来た異世界の住人には少しだけ興味が持てた。

ふと、重たげな頭が動いた。視線に気づいたのか左目が俺を捉えて射抜いている。不機嫌、だろう。全く何もこもっていない声音で「何」と呟く。


「特に何も」
「…ジロジロ見ないでくれないかな」
「ねえ」
「何」
「君が向ける先には、誰がいるの?」


唐突にもれた言葉だった。あの射抜く目で見る相手は誰なのか。知りたかったわけじゃない。けれども考えるよりも先に出るということは、多分興味があったから。
さっきよりも更に鋭くなった。まるで「手を出すな」と言わんばかりに。その目で俺を刺しながら「誰でもいいでしょ」とだけ返ってきた。まあ、予想通り。立場が逆だったら俺も同じ様に言わないだろう。

レジ脇の棚から、新聞紙にくるまれたソレを手に取った。器用に片手で受け取り、そろりと中身を見る。そして再び不満げな顔をする。そりゃそうだ、新聞紙の中は具材しか入っていない。


「これだけあっても、」
「うん」
「欲しいのはこれじゃない」
「でもそれがなきゃ、メインディッシュにはならないデショ?」
「…」
「それだけあれば十分?」
「…」


店に入ってきたときと同じ目で頷いた。一番欲しいものじゃなかったとしても、相手にとっては必然だ。本物は、一アルバイトでしかない俺が渡せるものじゃない。

ガサガサと新聞紙を弄る音と共に、店の扉が開く音がした。「ただいま戻りました」という柔らかな声と外の熱気も多少入ってくる。お客さん、と後ろを指差す。気づいたコウさんが「どうも」と短い挨拶をした。さっき渡した新聞紙の塊を脇に抱えて、再び「中華鍋を、」と言った。


「…どうやら、メインはまだ仕上がっていないようですね」
「メインは最後に出して盛り上がらせるものだから」
「そうですね…では、これを」


コウさんはすんなりを中華鍋を手渡した。白い手に渡り、中身を確認した後にポケットから薄い財布を取り出す。裸のまま小切手をコウさんの手に置いた。その動作が、あまり現実味を帯びていない、と思った。
薄っぺらい小切手に書かれてある金額と相手が抱えている中華鍋と具材を交互に見比べながら、相変わらず読めない笑みで「確かに」と。


「ご健闘を」
「祈ってない癖に」


じゃあ、とも言わずに出て行った。
残された香りのようなものが鼻についている。さっきから全然離れてくれない。鼻を擦っていると、通帳を捲りながら「あの方の残り香は凄いですよねェ」と他人事のように言っていた。

別に、匂いがあるわけじゃない。あの人が残していくものが目で見えなくても嗅覚で分かってしまうような気がするだけだ。実際、この場の匂いは何もない。


「あの人、コウさんの知り合い?」
「いえ。ただの大事なお客様ですよ」


コウさんの「あの大事なお客様」は、誰を振舞うのだろうか。あの視線の先にいるのは、俺ではないのだろうか。あの目に映った自分は、よく見えなかったが良くはなかっただろう。


「羨ましいなァ…」
「おや、いつの間にそのように?」
「ふと思っただけ」


殺されるなら、あのような瞳に見つめられたい。


20130817 柳



- ナノ -