「あら、信乃さん」


よ、と挨拶もそこそこに信乃さんは厨房を抜けて奥へと消えていく。先にあるのは私の家であって信乃さんの家ではないのだけれど、生憎とそれを気にする信乃さんでも私でもない。ここは信乃さんの避難場所、なのだ。


「何か美味しいものは食べました?」
「いや、全然。折角探しに出たのに現八に出くわしちまって」
「あらまあそれは。仕方がないですね」
「何でこんなに会うんだよ…ストーカーかって」
「巡回は現八の仕事ですから。お気持ちはわかりますけど、無体なことをお言いにならないでください」
「んー。なまえ、腹減った」
「台所にありますからご自由にどうぞ。…今日はどうします?」
「どうすっかな。荘介は何だって?」
「信乃が来たらお手間でしょうがお願いします、だそうです」
「……ムカつく」
「まあまあ」
「んじゃ、何時も通り荘介が来るまでいる」
「はい」


そういえばお茶の用意を忘れていた。信乃さん、と声を上げようとしたところに響いたのは馬の声。バタバタと、慌てて更に奥へと消える音がする。


「信乃が来ただろう」
「来ましたね」
「…奥か」
「何か食べます?現八」
「信乃が…まあ、そうだな。食うとするか」
「そんなに見たって通しませんよ。営業中です」
「信乃はいいのに俺は駄目なのか」
「現八も勤務中でしょう?だから、駄目です」


むうっと子供のように拗ねた顔。こんな顔をするものだから、私には時折現八の方が幼く見える。そういえば母は信乃さんに熱を上げる現八を見て「悩みがあるのかそれとなく聞いておきなさい」なんて言っていたっけ。悩み、現八はそもそも変わった人だから、信乃さんに惚れたのだと言われても仕方がない気もしてしまう。きっと父と母は、大袈裟に嘆くのだろうけど。


「信乃は荘介が迎えに来るまでいるのか?」
「その予定ですね」
「…なら俺が代わりに」
「頼まれていないでしょう。荘介さんには何と言うつもりで?」
「そんなもの、現八が連れて帰ったとお前が言えばいいだけだ」
「私は現八の伝言係ではないです」
「好だ。それくらいやってくれてもいいじゃないか」
「…現八」
「ん?」
「捕まる前に自分を見つめ直した方がいいと思います」
「捕まえる側が俺だからな、それは大丈夫だ。第一――…」


また奥を見る。ああ、信乃さんはのんびり食事を摂れているだろうか。お茶、という単語が浮上して来たけれど、信乃さんは自分で用意しているかもしれない。何せすっかり我が家に馴染んでしまっているから。


「俺の行動の何処が問題になるんだ?」
「…全体的にです」
「わからん。ただ信乃に挨拶をと思っただけだろう」
「その相手に逃げられ、挙げ句避難場所まで追い掛けて来る人の行動はただの挨拶なんですか、知らなかった」
「ここには飯を食いに来たんだ」
「開口一番が信乃でしたけど」
「そうだったか?」


素っ惚けるているのか天然なのか、…後者だろうな、恐らく。



end.

20130705 むじ


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