「私はこうやってお隣に座っているだけで緊張して、」
「ああ、いや、すみません。私の気遣いが足りなくて、」
「ごめんなさい。そのように言わせるつもりは、」


これは全て曹操様から仰せつかったことだった。私が楽進殿と面識があること、将兵の皆様と然程関わりのない私が唯一気軽にお話をできる人(だからと言って他の方々と出来ない、というわけでは決してない)、それと楽進殿に連れ添う方がいなかったことが要因のひとつ。
望まなかった婚姻ではない。私の身を案じていた故郷の母に報告できるし、私自身半分諦めかけていたところもある。

けれども、だ。頭ではそう理解していても、いざその直面に当たってしまうとこうも何も出来ないのだろうか。


「楽進殿、夜風は冷えます。…さあ、これを」
「いえ、私はそれほど。なまえ殿こそ」
「いいえ、私はそれほど寒くは…」


ああ、この状況はまさに。まだ幼少の頃のほろ苦い思い出を思い出してしまった。お互い話したいのにうまく言葉が出ない。相手を気遣いすぎて沈黙してしまう。
今この瞬間だけでなく、いつも楽進殿が痛いくらい私のことを気遣ってくれていることが分かる。それでも私は、素直にご好意に甘えることは少なかった。無下にしているわけではない。与えられるだけでなく、妻として果たすべき役割を果たそうと、むきになっていたのだ。

妻、とは。そもそも何なのだろうか。


「ああ、そうだ。楽進殿、曹操様から頂いたお酒があります。飲まれますか?」
「よろしいのですか?」
「ええ、もちろん」


近くを通りがかった女官に一声かけ、頂いたお酒を持ってきてもらうよう頼む。
ふっ、と隣を見ると楽進殿は少し困惑したような表情をなさっていた。罰が悪いような、本当にいいのか、顔からそのような雰囲気を出して。

私は、彼の膝の上で固く握られていた手に触れた。僅かな反応を見せて私を見る楽進殿。驚きがまざまざと出ているその瞳を見つめ、そっと顔を綻ばせた。


「私はこのくらいのことしかお役に立てませんから」
「そんな!私はただ、いつも元気な姿が見れれば、それで」
「…楽進殿?」
「なまえ殿。あなたが僭越ながら私の妻となって頂き、微力ながら私はあなたを守りたい。ただそれだけなのです」
「私も、同じ気持ちです」
「、」
「私は刃を握れません。戦場に赴くことはできません。ですから、せめてこの城にいるときは、私にも守らせてください」


再び沈黙した空気のなかに溶け込むように入ってきた、女官の心細い一言。首だけ振り向くと何だか困ったような顔をして、お酒と杯がふたつ。
あなたのせいではないのよ、と一言添えて盆ごと受け取る。一歩も二保も身を引いて去っていく背中を見送りながら杯を差し出すと、楽進殿までが女官と同じような顔つきになってしまった。


「ひとりでは、口寂しいですから」
「なまえ殿」
「せめて、こうやって他愛も無いお話をしたくて」
「…」
「それと、楽進殿の心休まる場所になりたいのです」


私にはこのくらいしかできませんから。
ぽつりと喉から出た声はその場に落ちたような気がした。落ちて溶けて、跡形もなく。
ふっと、右手から重みが消えた。杯を手に取った楽進殿が、先程よりも幾分か柔かな顔で杯をこちらへ傾けていた。


「なまえ殿、よろしければ注いでくれますか?」
「はい」


杯に注がれていくお酒は、ぽっかりと丸い月を映す。水面に映る月を眺めながら楽進殿は月が綺麗だと言った。
その声に少し緊張が混ざっている。杯を持つ手に持つ、僅かに力が入っている。それにつられるように、私の両手にも自然と力が入った。


「ぎこちないですね」
「はい、あ、あの、申し訳無いです。未だ慣れないせいか妙に強張って、」
「ふふ、私もです」




20130714 柳




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