こんなに美味しいとは知らなかった。


「安心?」
「はい」


ある晴れた日の昼下がり、平日だからか人通りも少し少ない町の中心地で私は喫茶店でコーヒーを飲んでいた。でもブラックなんてとても、マドラーでくるりと回してからミルクを注ぐと白い流れが黒を染めていく。勿論砂糖も入れる。他の人に言わせてみればコーヒーはブラックが当たり前、だなんて言うけれど、私はまず「コーヒー」自体が存在していなかった。
なのに何故今ここでコーヒーを飲んでいるのか、それはただ単純に前に座っている彼が優雅に美味しそうにコーヒーを飲んでいたからだ。当の本人はまさか自分が飲んでいたから私も続いて飲んだなんて考えもしないだろう。


「…よく分からないな、どうしてだい?」
「何と言いますか…多分、貴方だからです」
「私だから?」
「はい」


話は前に進まない。
彼を困らせている話題を出したのは私から、言わなくてもよいことではあったがふとした拍子に口から溢れ出ていた。そしてその口は目の前の彼にこう言ったのだ、「貴方がいると安心してコーヒーが飲めます」、と。今まで飲んだことなど無かったものなのに何故、そんなこと私が知るはずも無い。もしかしたら、この吸い込まれそうな黒に恐怖を感じていたとか?それほど私は怖がりだったか?


「今まで一人で飲んだことは?」
「ありません」
「…それは訳を聞いても?」
「不安、でしょうか」
「不安、かい?」
「はい、不安です」


カップの縁を親指でなぞりながら呟く、彼はますます分からなくなってしまったようで、眉尻が下がっている。残念ながら彼の望むような言葉は私のなかにも存在はしていない。逆に私に聞かせて欲しいくらいだ。
私はコーヒーを一口口に含む。恐る恐る。苦味が和らぎ、甘さとまろやかさが広がる。


「なまえ、」
「はい」
「今、君はコーヒーを飲んだよね?」
「はい」
「それは私がここにいるから?」
「はい」
「なら私が今外へ行ったら」
「私はコーヒーを飲まないでしょう」
「…君にはとても考えさせられるね」
「そうでしょうか」
「苦いのが苦手、とか」
「いえ、苦味は寧ろ好きです」
「不思議だね」
「はい」
「なら、私も君とのコーヒーを楽しもうかな」
「?」
「今まで飲めなかったものが飲めるようになったんだ、それは少なからず「不安要素」が削がれたってことじゃないかな」
「不安要素…」
「君がコーヒーにどのような感情や何かを抱いていたかは分からないけど、さっき君は「安心して飲める」と言ったね?」
「はい」
「私も似たような感じさ、君と飲むコーヒーは美味しいと思うよ」


それに、君と話をすると楽しいしね。
まるで告白のよう、私は体温が上がるのを感じた。でもこれは恥ずかしさなどといった青春的反応とは程遠い。紅潮した肌を抑えようと、私はすれ違ったウェイトレスにコーヒーを頼んだ。直ぐにお持ちします、と言って奥へ行く。
ああ、そういえばコーヒーを飲んでいる人は一人ではない。人と話している人もいれば新聞や雑誌を飲む人も。「一人」かもしれないが「退屈」では無いだろう。それを見て自分が惨めに思えてきた幼い頃を今更思い出した。


「元就様」
「そんな様なんてつけなくていいよ」
「いいえ、私は元就様とお呼びします」
「頑固だね」
「父親似なんです」
「君の父親は…ああ、納得したよ」
「元就様」
「なんだい?」
「元就様とコーヒーが無くなる日まで、私と共に飲んでいただけますか?」


ウェイトレスがかちゃりと音をたてて置いたコーヒーカップ、一口しか飲まなかったコーヒーは下げてもらった。勿体無いけれど、今この場に自分の気持ちを紛らすための飲み物なんていらなかった。
コーヒーカップを持ち上げる。元就様は笑みを浮かべている。


「勿論、私でよければ君に付き合うよ」


「檸檬」より/梶井基次郎

20120614 柳


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