それは、ふとしたときに感じた。


「姜維様」


障子を挟んだ向こうから控えめに私を呼ぶ声が聞こえる。私は動かしていた手を止めて障子の方へと歩み寄る。そこにいたのはこの屋敷で働く一人の女中、冷たい板間に正座をして待っていた。手元には申し訳程度の光。


「ああ、なまえか。こんな夜にどうした?」
「いえ、ここを通りかかったらまだ起きていらっしゃるご様子でしたのでお茶をと」
「すまない、寒いだろうから中に入ってくれ」


わざわざ私に茶を持ってきてくれた女中、名はなまえ。年は私と同じくらいであろう、他にいる女中に紛れて目立たないが彼女が控えめに笑ったときにできる笑窪がとても印象に残る。私はそんな彼女を中へと誘い、ゆっくり障子を閉める。緩く吹く夜風を遮り、私はなるべく彼女と目を合わせない様にしながら薄い座布団に腰を下ろした。


「すみません、煎茶しかなかったもので…」
「十分だ、ありがとう」
「いえ」


湯のみに入った煎茶を飲む。冷たい空気によって冷えていた体が内側からじわじわと温まっていくのを感じた。温まるだけでなく少し動きやすくなったかもしれない。茶一杯でここまで体が変わるなんて、少し意外だ。
半分程飲んで一息つく。目の前に座るなまえは目を細めて微笑んでいた。目が合い、先に逸らしたのは勿論私だ。


「濃かったでしょうか?」
「あ、いや大丈夫だ。お陰で温まったよ」
「それは良かったですわ」


風邪を引いては大変ですから、そう言ったなまえの目には私が映っている。それを考えただけで私はどうしようもない気分に襲われる。
手元に残る茶は後半分、冷めないうちに再び湯のみを持ち上げて口元に寄せる。喉を流れていく茶の風味を堪能しつつ全て飲み終えると、視界の中に小さな両手だ入ってきた。それは障子越しに入る月明かりで一層白く輝いている、なまえの手。


「温まりましたか?」
「ああ。なまえのお陰でまた作業が捗る」
「余り無理をなさらないようしてくださいませ」
「でもこれだけは仕上げなくてはならないんだ」
「諸葛亮様からの、でございますか?」
「勿論」
「ふふっ…諸葛亮様となると姜維様も熱の入りようが違いますね」
「そのように見えるのか?」
「はい、特に時間をかけて行っていますわ」


お気づきになりませんでした?と首を傾げながら聞くなまえ。気づかなかった。確かに間違い無くこなそうと気合が入る自分がいるのは分かるが、他の者から見てもそのように見えるのか。…少し、恥ずかしい気もする。


「姜維様、湯のみを」
「あ、ああ」


私の手元による白い手に私は持っていた湯のみを丁寧に乗せる。その際、一瞬手に触れた。温度とか感触とか細かいところは全く分からなかったが、少しだけ近づいた互いの距離に吐息がかかってしまうかと思ってしまった。そして、触れた手。驚くぐらいそれに反応している自分がいる。一方で彼女は何も無かったかのように振舞っている。


「では、私はこれで失礼致します」
「余り無理なされてはなりませぬよう」


ゆっくりと立ち上がったなまえはそのまま障子を開けて出て行ってしまった。その間、私は何も言えずにいた。最後まであの控えめな笑みを携えていた彼女がいつまでも私の脳裏から離れようとしない。
居なくなってしまったことで急に温度が下がったのはこの部屋だけではないだろう。私は今ある温かみが冷めないうちに布団へと潜り込んだ。


詩集「若菜集」より/島崎藤村

20120621 柳


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