彼を馬鹿だと言う人はいるのだろうか。
彼女に同情する人はいるのだろうか。


「石炭をば早はや積み果てつ」


既に過ぎた過去が淡々と綴られたこの本はいつも読むたびに何かを私に考えさせてくれる。それはいつも形が違い、それに対する私の感情も同じように違う。何故だろう。同じ内容なのに与えられるものが違うなんて。
頁の端は何度も捲った後がついて捲り上がり、カバーは既に無い。本は好きだが大切にしない私。


「何故なんだろうね」
「知るか、馬鹿め」


思わず紡いだ言葉を隣に座る男は反応を示した。珍しい、彼が口に出すなんて。彼が仕事をするデスクの上に腰を下ろしていたからだろうか、心なしか眉間の皺が深い。不快感を出す彼を見て素直に腰を退ける。
フン、と鼻を鳴らした仲達先生は再び書類と睨み合う。


「先生はいつも短気ですね」
「誰でも自分の机に尻をつかれたら不快に思う」
「いいじゃないですか、座らせてくれたって」
「床に座れ」
「汚いのは嫌です」
「なら立ってろ。子供みたいなことを言うな、馬鹿めが」


口癖であろう「馬鹿め」が華麗に決まり、私は近くに合った簡易な椅子(先生はこれを踏み台として使ってたっけ)に座り再び頁を捲り始める。
この話をあらすじとして纏めると実に簡単に終わってしまう。あらすじは本来そのようなものではあるが、私としては逆に「あらすじ」を書いて欲しくないと思うくらいだ。何故か、勿論そんな数行で簡単に説明できるほど生半可な内容ではないから。
有名な冒頭の一行から始まるこの悲劇に私はいつも感じる「小さな恐怖」をひしひしと感じながら読み進めていく。椅子の上に踵を乗せ、両腕で両膝を抱え込むように抱くと片手で本の中心を持った。


「おい」
「…んー?」
「貴様は何故いつも同じ本を読む」


いつもなら適当に返事を返して無視するような感じで話が終わるが、今回の先生の声は右耳から入ってそのまま脳味噌内を循環した。なかなか左耳から抜けていかない。私は適当な返事を返してから本の世界から一回現実に帰ってくる。


「何ででしょうかね」
「問いに問いで返すな」
「自分でも分からないんですよ、何か読みたいなーって思うといつもこれ読んでるんです」
「答えになってない」
「手厳しいー」
「厳しいも何も、私はただ正論を言ったまでだ」
「先生の言葉には棘が入ってるんです」
「知らん」


ほぅら、また棘が。私はそれ以上何も言わず再び本へと目を向ける。先生も呆れたのか口を開かなかった。そしてこの空間に広がったのは先生が鳴らす万年筆の音と頁を捲る音だけとなり、たまに聞こえてくる人の歩く音や車の走る音は耳に掠めもしない。


「嗚呼、ブリンヂイシイの港を出でゝより、早や二十日あまりを経ぬ。世の常ならば生面の客にさへ交はりを結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の習ひなるに、微恙にことよせて房の裡にのみ籠りて、同行の人々にも物言ふことの少きは、人知らぬ恨に頭のみ悩ましたればなり。此の恨は初め一抹の雲の如く我が心を掠めて、瑞西の山色をも見せず、伊太利の古蹟にも心を留めさせず、中頃は世を厭いとひ、身をはかなみて、腸日ごとに九廻すともいふべき惨痛をわれに負はせ、今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳とのみなりたれど、文読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、限なき懐旧の情を喚び起して、幾度となく我心を苦む」


ここを読むと、本当にあった話のように見えて仕方が無い。でも豊太郎はこの「舞姫」にしか存在せず、全てはフィクションなのだ。勿体無い、勿体無いと思うのははたして私だけであろうか。実際にこのような話があったら皆が「可哀想に」と言うかもしれないが、私は逆にこの話が実在して欲しいと思う。実在し、彼が本当に生で感じた「エリスの魅力」や「心の葛藤」を聞いてみたい。テレビで見るような、相手の気持ちなど端から無いというように無視をして質問を投げつけるアナウンサーのように、彼が「もうやめてくれ」というまで聞いてみたいのだ、彼が感じた苦痛を直に味わいたいのだ。メモなんて取らない、彼が泣こうが構わない、私は「豊太郎」が感じた全てを知りたい。


「悪趣味だな」
「……何か言いました?」
「途切れ途切れに口に出ていたぞ」
「あ、ほんとですか?」


あらうっかり。私の素直な口は今思ったことを表に出していたようだ。私は特に謝るなどせず、体勢をそのままに先生へと目を向けた。先生は手元を睨みつけながら口を開く。


「聞いてどうする」
「私豊太郎の大ファンなんです」
「迷惑な奴だ」
「この愛はジョン・レノンを殺した犯人と同じ様なもんです」
「気味が悪い」
「よく言われます」


そう、私は狂信的なファンだといっても過言ではない。だからと言って本当に誰かを殺すようなそういった類のものとは違うが、兎に角私は彼が好き。きっとこの愛はマリアナ海溝よりも深く、エベレストよりも高く、エリスの愛よりも強大なものだと思う。
このことを実際に人に話したことはあることにはあるが、皆口を揃えて「気持ち悪い」という。失礼な、そう思うが実際私も「殺したくなるくらい好き」と言われたら若干見る目が変わるだろうね。


「先生はそれほどまでに誰かを愛したことはないんですか?」
「何故自ら身を滅ぼすようなことをしなくてはならない」
「まあ、確かに。でも先生、息子さん達を愛していないんですか?」


…言って思ったが、我ながらなかなか凄い事を聞いたと思う。凄い、というか凄まじい。
たらり、と冷や汗的なものが背中を伝う。先生は今まで見たことがないほど冷やかな目で私を見て「この凡愚が」と一言。思わず謝ってしまった。


「私に何を期待していた。言ってみろ」
「ごめんなさい、ちょっとした出来心です」
「馬鹿めが」


こんなことを言いながらも先生はちゃんと息子さん達に愛を示していることは分かっている。仕事場に家族で撮ったような写真が一枚も無かったりはするが、たまに会話のなかに息子さん達の話題が入る。一般的にいう「愛」が先生から感じられなくとも先生は息子さん達を愛している。それに間違いは無い。
何だか嬉しくなってしまった私は思わず笑いが漏れてしまう、それを聞いていた先生から「気味が悪い」と二度目の棘が刺さった。
私は既に出来上がった原稿を先生から受け取り、一通り確認すると折れないように茶封筒にしまう。「先生今回もばっちりですね」と言うと先生は私に目を向けずに「当たり前だろう」と言った。自信家な先生だ、今に始まったことではないが。

ふと、今この瞬間が舞姫の原稿を受け取っている瞬間だとしたら、と考えた。私はそれを考えると少し嫌だった。だって、書いた本人は豊太郎じゃないもの。


「舞姫」より/森鴎外

20120614 柳


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