「司馬師、様」
「…なまえか」


殺伐とした空気は今もなお薄れることなく城内に張り巡らされていた、魏の重臣達は揃いに揃って司馬家を妬み憎んでいる。そして先日、私が仕える司馬師様の暗殺が企てられ、命は落とされなかったものの顔の左側はこの先も薄れることのない傷痕が物々しく残ってしまった。
朝、いつものように司馬師様のお部屋を訪れていつものように仕事を始めるのだがどうしても喉に力が入ってしまう。絞り出したような声で司馬師様の名を呼ぶと寝台の方から司馬師様のお声が。まだ安静にしていなければならないと典医様に言われ大人しくなさっている。


「おはようございます、ご気分はよろしくなりましたか?」
「愚問だな、答えなくても分かっているだろう」
「…申し訳ございません」


まだ開かれていなかった窓を開ければ昇った陽の光が私や司馬師様だけでなくこの部屋にも朝を告げているようだった。
司馬師様の寝台近くへと寄り顔を覗いてみる、病を患ったわけでもなくこうやって寝台に寝ているのは司馬師様にとっては些か納得のいかないことだろう、することは山程あるというのに、だ。卓の上に揃えてある書簡を見て思わず苦笑いが込み上げ、司馬師様への愚問も苦笑いで返す。いらないことだったとは思うが…いや、本当に余計な言葉だった。


「すべきことが日に日に増えていくのを黙って見ていなければならないのか」
「典医様の言うことですからお聞きにならなければ、」
「ふん、要らぬ心配だな」
「司馬師様、傷の具合を確かめますわ」


何も答えず肩の動きで息をつかれたのが分かり、私は失礼します、と一言詫びをいれてその傷を覆っている包帯を剥がしていく。常に包帯を変えて清潔を保ち続けてきただけあり膿んではいない、縫いはしたがそろそろ抜糸してもいい頃合いにまで傷は回復している。ただ、回復はしても痕が必ず残ってしまう。
こんな時はいつも後悔が襲ってくる。仕える身でありながら何故その場に自分がいなかったのか、司馬師様へと向かう刃を何故私が代わりに受けることが出来なかったのか。今までに将兵が持つ「武器」というものを扱ったことは無い、護身程度でも心得ていたら一撃を受け止めることは出来たかもしれない。いや、司馬師様も剣を携えて自ら戦場に赴いて戦う方であらせられるから私一人の力など…。
何故、何故、と答えのでない疑問をただひたすら自身へ問い掛ける、包帯を握る手に力がこもった。


「なまえ」


司馬師様の一言で我に帰った。私は今何を?
そしてまだ包帯を取り換えている最中だったことに気付いて慌てて作業に取り掛かる。綺麗な水で溶いた薬を指で掬い傷口へと直接塗り、新しい包帯を巻く。


「何を考えていた」
「…いえ」
「無いわけなかろう、お前は思っているより分かりやすい」
「…」
「気にするほどでもない、この傷のお陰で私が今生きていることが分かった」
「一体、何を…?」
「ふ、暗殺計画などそのくらい予知できる」
「…なら、」
「先に討てた、とでも言うのか?」
「…」
「そうだな…分かっていたなら何故先に討たない、か」
「…」
「魏の命運、とでも言えば分かるか?」


ああ、私はこのお方のお考えなどこの先仕え続けていても分からないだろう。逆に暗殺計画を誘き寄せて自分が死ねばその討った人物に道を譲り、生きていたら天下をお取りに。自分の身を危険に晒してまですることだったとは、私には理解がならない。だが、司馬師様は今回の事件で改めて自分に魏の命運がかかっていることをお知りになった、傷は残るが傷はあっても自分はまだ居る、そういうことなのだろうか。


「司馬師様」
「なんだ」
「これからも私は、司馬師様にお仕えし続けますわ」
「そうか」
「司馬師様はこの世にお一人しかいらっしゃらないのです、身勝手なのは分かっていますがもっと自分の身を」
「案じろ、と?」
「…はい」
「フハハハハ!」
「…」
「だからお前は分かりやすい」
「…私は、」
「なら、私が死なぬよう精々仕えることだ」
「…はい」


何で私は女なのだろう、そう思った。
仕える主を戦場に送り出しておいて言える身ではないことは分かっている、だからこそこのようなことは、と思ってしまう。


「私が死んでも代わりはいますわ、でも司馬師様は今ここにしか、いらっしゃらないのです」
「なまえ」
「はい」
「それはお前も同じだ」


どれほど司馬師様を冷酷な人間だと言うことがあろうとも私はこの人にお仕えしよう。限られようとも、司馬師様の行く道先は私も望むこと。いや、それだけでは、ないのかもしれない。


20120316 柳


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