「なまえ」
「はい」


柔らかく陽の光が射し込むこの部屋、姫様はその光と同じくらいの柔らかい笑みで私の名をお呼びになる。私も答える、今までよりもその返事に重みを置くように、噛み締めるように。


「とても楽しかったわ、なまえといれて」
「私も姫様と共に過ごした日々がとても楽しゅう御座いました」


僅かに開いた窓の隙間から風が入る、姫様の短い髪がふわりと浮き上がる。まだあどけなさが残るものの、もう姫様は立派になられている、いつの間に姫様は大人になられてしまったのだろう。


「貴女には子供の頃からお世話になったもの」
「孫策様とご一緒によく木の上にお登りになって…」
「そう!腕や足に掠り傷沢山作ってね、」
「ああ、孫堅様が雷の如く憤慨したお姿が鮮明に蘇ります」
「その度になまえに抱き着いてわんわん泣いたわ」
「そしてご一緒に陽の当たる場所で寝ましたね」
「懐かしいわね」
「はい、とても」
「どれくらい前になるかしら?」
「まだ姫様の背丈が半分くらいの頃ですわ」
「と、なると…」
「かなり昔ですね」
「そうね」


くすくす、姫様と私は控えめに笑う。まだ世界が大きく見えていた頃、今思い出すと一つ一つが可笑しくて懐かしくて思い出深い。
遠い昔のこととなれば多少は記憶に無い部分はある筈なのに、一日が全て頭に蘇ってくるような感覚が押し寄せてきた。長いと思っていた日々も今になっては駿馬のように速く駆け抜けていったように思える。


「あの頃の姫様はもう、いないのですね」
「いつまでも子供らしく振る舞うわけにもいかないもの」
「お転婆だけは変わりませんよ?」
「お転婆じゃなくて「元気」って言ってほしいわ!」
「そうで御座いました、元気で活発で、お転婆な姫様でしたわ」
「そうやってなまえはいつまでも私を子供扱いして…もう子供じゃないのよ?」


む、と頬を膨らませて不貞腐れたようなお顔になる姫様。まあ、全く変わっていませんわ。
…でも、確かに姫様はもう子供ではない。花の香りが漂うこの暖かな季節、草も木も花も全てが姫様をお祝いになっている。


「姫様」
「なに?」
「もう、お時間で御座いますわ」


そう言うと姫様は眉尻を下げて「もう時間なのね」とお呟きになった。
ここまで来るのに姫様はかなりのご苦労をなされた、たとえご自分が政の道具として使われようとも姫様は相手の方と繋がることを望まれた、また相手の方も姫様と共に歩むことを望んでおられるという。心の底からお喜びになる姫様を見て私も嬉しくなるのと同時に淋しく思ってしまった。だがこれは抱いてはいけないもの、侍女としての最後の勤めは姫様を出発を心から喜ばなければいけない。


「今までありがとう、なまえ」
「それは私のほうで御座いますわ、姫様」
「なまえは姉のように思っていたわ。ずっと前から、いや、今もそうよ」
「姫様…」
「だからなまえには武装をさせたくなかったの。あれね、なまえを姉として守りたかったのよ」
「本来ならば姉が妹を守る立場です、私も同じ様に姫様をお守りしたいと思っていましたわ」
「そう、ね。私は散々守られてきた」
「今度はその手で、赤子をお抱きになるのですよ」
「もう弓を握っている暇はないわね」
「ええ」


姫様はご自分の手を見ている、その手にこれからの自分を見ているのだろうか。そこに私は映っていない。それで良いのだ。
にこりと微笑み「なまえ」とお呼びになる姫様、そこには「母親」としての表情も垣間見えた。
「孫尚香」から「孫夫人」へと変わる瞬間、私は草木と共に盛大にその門出を祝おう。


20120314 柳


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